「会う人によって人格が変わる自分」を夫に見られるのが恥ずかしい...それでも私が “自分が好きな自分”でいられる理由【住吉美紀】
これも、想像と違っていた。まず、あまりに互いの専門が違いすぎて「こうすべき」というところまでわからない。話を聞いても「へぇ~」で止まる。 さらに、夫と私が似たもの同士ではなく、正反対なのも功を奏した。夫は理論型でマメ、私は直感型でざっくり。夫は数字が大好きな理系、私は数字が文字化けにしか見えないほど苦手。反対に、私は文章や言葉が好き、夫は苦手。夫は隣家が数百メートル離れているような、岩手の田んぼの中を駆け回って育った大地育ち。私は地方都市を転々としてきた、都会育ち。 これら、放置しておくと不一致に繋がりそうな違いが、仕事では逆に活きた。経理的なことは夫、対外的な言葉の表現は私など、仕事の分野を超えて助け合い、弱みをカバーし合えた。夫婦というより、暮らしとビジネスを共に背負う”人生チーム”となった。 さらに。私は、作家の平野啓一郎さんの唱える「分人主義」という考え方に共感している。簡単に言うと、人は、人間関係ごと、社会環境ごとの人格を持っていて、それを無意識に切り替えて暮らしている、というもの。家族には家族といるときに出てくる私がいて、義理の家族にはまた別の私だったり、職場には職場の私、この友達グループの時はこんな私、お茶の稽古場での私、あるいは英語を話すときに出てくる私など、いろんな私がいる。その状況が交わらなければ、混乱はない。 しかし、結婚して、夫のいるレストランに様々な方をお連れするようになり、ある時は女子友達と毒舌トークが弾む口の悪い私、またある時は尊敬する方を前に借りてきた猫のような私など、別人のような私を随分と見られてしまっているな、と思うようになった。それが、仕事のパートナーとなって、さらに増えた。 仕事の現場では、言動がパキパキとしていて、人見知りせず、大胆で決断力のある私が出てくる。しかし、妻の時は、ダラっとして決断力のない、人見知りをする、ふざけるのが大好きな人間となる。 最初は、こんなに変わる私を見せるのが少し恥ずかしいという気持ちもあった。「仕事の時はあんなに格好つけちゃって」と思っているかな、とドギマギもした。しかし、夫は驚いたり引いたりすることはなかった。「それも美紀の一部」と、何も言わず淡々と受け入れた。今では夫といても、安心して、どのモードの自分にもスイッチできるようになった。 そもそもがこんな風に「いろいろな自分」について細かく考える人の方が少ないかもしれない。私がなぜここまで考えるようになったかというと、生ラジオの仕事のせい。「ラジオパーソナリティとして出てくる私」と向き合う覚悟が必要だったのだ。