小柄で武術が不得意だった豊臣秀吉はなぜ戦国を勝ち抜けられたのか?乱世のリーダーが「戦術」を鍛えるべき理由
■ 小柄な豊臣秀吉が「乱世を生き抜いた戦術」 ――著書では、戦術の成功確率を高めるポイントをいくつか紹介しています。その中でも、最も重要なことは何でしょうか。 加来 戦術の成功確率を高めようと思ったとき、基本になるのは「自分の土俵で勝負する」ということです。言い方を変えれば、自分の成功のパターンを持ち、自分が得意とする戦い方で勝負することが重要です。 戦国時代の武将は、根気よく城を囲んで敵を降伏させる「城攻め」(兵糧攻め)が得意な者もいれば、本人が槍を振るって敵の首をあげる「野戦」が得意な者もいました。例えば、豊臣秀吉(1537-1598)は、「城攻め」を得意としていました。 秀吉は小柄で武術が不得意でしたから、戦場に出て戦うことは自ら死にに行くようなものです。では、どうすれば生き残ることができるでしょうか。そのためには、自分がそうした局面に遭わないような戦い方をすればいいわけです。 そこで有効なのが、勝負の土俵を「野戦」から「城」に移すことです。相手を城中に押し込め、兵糧を断ったり、水攻めをしたりして、根気よく城を囲んで相手の気力を消失させながら降参を促すという戦い方です。 秀吉は「城攻め」を自らの得意戦術として完成させ、備中高松城や小田原城などの難攻不落といわれた城を次々と降参させていきました。苦手を克服することよりも、自らが確実に勝てる土俵に相手をおびき寄せることが、勝率を上げる第一の近道なのです。 ここで重要なことは、戦い方には「こうでなければならない」というものはない、ということです。「こうであるべき」「こうでなければいけない」と考えた瞬間、その時点で戦術的には「負け」です。戦い方はさまざまなのですから、自分の得意な戦術や成功パターンを持ち、相手を自分の土俵に引き込むことが、勝負に勝つ確率を高めるための第一歩だといえます。
■ 乱世のリーダーに求められる「戦術の説明能力」 ――部下を動かす「チーム戦術」として、織田信長の事例を紹介されています。冷酷で無慈悲な暴君というイメージがある信長が、一見無謀とも思える合戦に多くの部下を参加させることのできた背景には、どのような戦術があったのでしょうか。 加来 たしかに、織田信長(1534-1582)は無口で冷酷なイメージがあります。例えば、部下からいろいろな報告を受けても、いつも「(そう)で、あるか」という短い一言で済ませていたエピソードは有名です。 しかし、多くの部下たちは、信長を主君として支持しました。それのひけつは、チーム内のコミュニケーションにあります。信長は、大きな方向性を示すだけでなく、「なぜ、それが必要か」ということを、部下が納得できるまで丁寧に説明することを怠らなかったのです。そのため、一見無謀とも思える合戦にも、部下たちは納得して信長に付いていったのです。 象徴的な例が、1571年に織田軍が近江国(現・滋賀県)にある比叡山延暦寺を焼き打ちにした際のことです。信長は僧侶や学僧のみならず、女性や子供まで皆殺しにしました。当時、他の多くの武将が仏罰を恐れ、僧兵を従える寺院勢力に手を出すことを恐れる中、信長は部下に比叡山延暦寺焼き打ちを命令し、部下はそれを実行したのです。 中世の人たちにとって「神仏に対する恐れ」は、現代の我々にとっては想像もできないほど大きなものだったでしょう。しかし、そうした時代にあって部下たちは、なぜ信長に従ったのでしょうか。 信長は、それ以前に「天下布武」(朝廷の下に泰平の世を開く)という言葉で、自分たちが向かう方向性や目的を示していました。その上で「それを邪魔しているのが延暦寺だ。彼らは経文すら読まず、酒を飲み女性たちを平気で出入りさせ、破戒の限りを尽くしている。あれが仏教か。ああいう連中がいるから乱世になったのだ。仏罰を受けるのは、むしろ彼らの方だ。だから、私は攻めるのだ」と、部下たちに征伐の理由を丁寧に説明しました。 信長は、決してうそを言って部下たちを丸め込んだわけではありません。部下たちも、仏罰よりも信長が恐ろしかったから付いていったわけではありません。彼らは信長の方向性に共感し、説明に納得したからこそ付いていったのです。いつの時代においても「説明責任を果たす」ということは、チームを率いるリーダーにとって非常に重要な戦術であると言えるでしょう。 戦術の内容自体も重要ですが、それ以上に、なぜその戦術をとるのか、その戦術をとればその先どうなるのか、納得できる「説明」が重要になります。そのことで、部下は納得し、安心して付いていくことができます。戦国の世であればあるほど、この「説明する時間と能力」が重要になってくるのです。