井上ひさしさんの母、自叙伝「ガタゴト列車」の原題は「死者えの長い手紙」…釜石の自宅で資料見つかる
劇作家・井上ひさしさんの母で、戦後の釜石を舞台にした自叙伝でも知られるマスさん(1907~91年)や、兄の滋さん(1929~2007年)の資料が、岩手県釜石市の自宅で見つかった。家族からひさしさんに宛てた手紙やマスさんの自筆原稿などで、今後は県立博物館に寄贈され、展覧会などで公開される予定。(道下航) 【写真】井上マスさん(岩手県立博物館提供)
マスさんは、波乱万丈な人生を自叙伝「人生は、ガタゴト列車に乗って」に描いた。夫と駆け落ち同然で山形県に移り住み、3人の息子をもうけたが夫は若くして病死。岩手県一関市や青森県を転々とし、建設業などに携わった後、釜石市で焼き鳥の屋台を始めた。滋さんは音楽の道を志したが、2人の弟のためにマスさんと建設業を切り盛りした。
マスさんらの家で保管されていたのは段ボール大の箱八つ分の資料。「ガタゴト列車」の自筆原稿は、原題を「死者えの長い手紙」としており、亡き夫を意識していたとみられる。赤い文字で多くの校正がなされている。さらに小説の未公開原稿のほか、マスさんが釜石で焼き鳥屋やバーを営んでいた頃の様子を伝える写真なども残されていた。
県立博物館の目時和哉学芸員は「戦後釜石の大衆文化でマスさんは中心的人物。見つかった資料は貴重だ」とした上で、「東日本大震災で散逸した資料もあり、多難な時代を生きた郷土の人の足跡や家族の絆を知ることで、今後の岩手の道しるべになる」と評する。
一方、滋さんからひさしさんに宛てた手紙も残っていた。ひさしさんは仙台や東京で暮らしていたため、家族と離ればなれの期間が長かった。手紙は家族のいた釜石で一時期過ごした際に持参して置いていったとみられる。
ひさしさんが仙台の高校在学中の1951年2月の滋さんの手紙には、弟に支援できないことを謝りつつ、「貴君たちの良い発展こそ母と兄の最後の夢だから。どんなにつらくても何んとか私は頑張るから」などと書かれている。
ひさしさんは後年、自身の舞台の音楽を滋さんに任せるなど、家族思いで知られた。若い頃を支えた家族の存在がわかる重要な手紙で、ひさしさんの研究の資料にもなるという。
保管していた滋さんの妻、淑子さん(87)は寄贈するにあたり、「何かの役に立てばという思い。ひさしさんと一緒の時間は少なかったが、つながっていたことがわかる手紙だ」と話した。