「お前は絶対にボールを打つな」23歳で東京進出した森脇健児「俺が!俺が!」の気持ち捨て、成功をつかめた訳
若いころは怖いもの知らずで、前のめりになっていく勢いが大事に見えますが、それだけでは成功をつかめません。20代、野心を胸に西でも東でも人気芸人にのしあがった森脇健児さんが、「俺が俺が」を捨ててつかんだ成功体験を伺いました。(全5回中の2回) 【写真】「ちょっと待って!面影ゼロ?」控えめ少年時代の森脇健児さん ほか(全14枚)
■芸人は爪痕を残してナンボだと思っていた ── 小学生のときには「お笑い芸人になる」と決めていたそうですね。 森脇さん:子どものころからラジオが大好きで、上岡龍太郎さんや西川のりおさん、オール阪神・巨人さんなど、お笑い芸人さんたちの番組を聞くのが楽しみでした。彼らに憧れ「自分も絶対に芸人になる」と決意。中学校の学園祭ではひとり漫談をしたり、高校(京都・洛南高校)の弁論大会では、当時流行っていた学園ドラマ『高校聖夫婦』と自分たちの学校生活を比較して、校則の厳しさをコキ下ろしたら大ウケ。最後に「でも、ここで過ごす3年間を絶対に意義あるものにして、一生の宝にしようぜ!」と締めくくったら、笑いと拍手、足を踏み鳴らす音で地鳴りがするほど盛り上がりました。人生でいまだにあれ以上ウケたことはないですね(笑)。一学年下に俳優の佐々木蔵之介くんがいるのですが、彼もあの場で聞いていたと思います。
お笑いと同じくらい打ち込んでいたのが陸上でした。高校の陸上部は名門で、全国インターハイにも出場しました。中学時代から陸上部でインターハイを目指してきたのでうれしかったですね。ただ、その目的は、じつは別のところにあったのですが…。 ──別の目的というのは…? 森脇さん:芸人の経歴として「インターハイ出場」という看板が欲しかったんです。陸上経験者はいても、インターハイ出場経験のある芸人ってそうはいないだろうから、武器になると思って。
── ある意味、不純な動機のような(笑)。 森脇さん:それだけ芸人になりたかったんです。自分なりの作戦でしたね。高校2年生のときに松竹芸能のオーディションに合格し、事務所に所属。そこから僕の芸人人生が始まりました。 ── 大阪の人気番組で知名度を上げた後、23歳で東京に進出。その後は、売れっ子芸人としてテレビで引っ張りだこの存在に。大阪と東京では、笑いのスタイルや進め方などが違うとよくいわれますが、苦労しませんでしたか?