最高裁に潜む「感情が全くない”怪物”」…他者を見下し躊躇なく切って捨てるトップエリートたちの「実態」
4つのタイプまとめ
さらに、司法行政を通じて裁判官支配、統制を徹底し、「もはや無人の野を行くがごとし」と評され、「ミスター司法行政」という異名をとった矢口洪一最高裁長官も、前記のどの類型にも当てはまらず、その意味では、D類型に分類するほかない人物であろう。私は、最高裁で行われたあるパーティーの席で、一度だけ、矢口長官と話をしたことがある。ふと気が付くと、175.5センチメートルの私よりもかなり長身の長官が前に立っていて、両脇の人々がさっと引いてしまったために、言葉を交わさざるをえなくなった。 「君は、民事局の局付だそうだな」 「はい、そうです」 「そうか。……しかしな、俺からみれば、局付なんていっても、何者でもない」 「はあ、……そうなのでしょうね」 というところで幸い先方が向こうに行ってしまったので、ほとんど会話ともいえない内容なのだが、ある意味、この短くかつ一方的な会話にも、矢口さんの本質はよく現れているという気がする。 矢口氏については、実はリベラルな側面や先進的な側面もあったなど肯定的に評価する意見も存在する。しかし、私は、彼の行ったこと、言ったこと、人としてのあり方を総合的にみるなら、そのような評価をすることは難しいと思う。また、司法や社会に関する彼のヴィジョン、あるいは人間観についても、基本的には、ゆがんだ部分が大きかったことは否定しにくいのではないかと考えている。 最高裁判事の性格類型については以上のとおりである。付け加えるならば、学者になって既にほぼ2年、現在の私には、裁判官出身の最高裁判事に対する特別な感情などない。基本的には遠い人々であり、名簿を繰りながら、できる限り客観的な分析を行ったつもりである。 もっとも、前記のとおり、4つの類型に属する人々の割合については、多少流動的であると思う。しかし、AとDが若干名、後はBとCがほぼ拮抗という図式自体は、おおむね正しいのではないかと考える。 『最高裁判事の隠された“素顔”──表の顔と裏の顔を巧みに使い分ける権謀術数の策士たち』へ続く 日本を震撼させた衝撃の名著『絶望の裁判所』から10年。元エリート判事にして法学の権威として知られる瀬木比呂志氏の新作、『現代日本人の法意識』が刊行されます。 「同性婚は認められるべきか?」「共同親権は適切か?」「冤罪を生み続ける『人質司法』はこのままでよいのか?」「死刑制度は許されるのか?」 これら難問を解き明かす共通の「鍵」は、日本人が意識していない自らの「法意識」にあります。法と社会、理論と実務を知り尽くした瀬木氏が日本人の深層心理に迫ります。
瀬木 比呂志(明治大学教授・元裁判官)