【加部究のフットボール見聞録】清算すべき昭和の“軍隊教育”
100人の「控え」の中に金の卵が埋もれていたはず
強豪校では100人を超える部員数を抱えることが多いが、桐光学園高は一学年約20人に人数を制限する少数精鋭だ。(C)SOCCER DIGEST
平成で日本サッカーは激変した。 プロリーグができて、ワールドカップを開催し、大会の常連国となった。最近では水泳や卓球など、他競技の選手たちが盛んに口にする。 「野球やサッカーのようにメジャーにしたい」 昭和は野球が独走した時代だった。サッカーでは、昭和11年のベルリン五輪で優勝候補のスウェーデンを下したことが、32年間も唯一の金字塔として語り継がれた。昭和39年の東京五輪や、さらに4年後のメキシコ五輪に出場した選手たちにとって、ベルリンの勇士たちは相当に煙たい存在だったそうである。 64年間も続いた昭和時代の目標は五輪で、まだアマチュアの選手たちは、ワールドカップを現実的な目標として描けなかった。昭和最後の挑戦(1990年イタリア大会)ではアジア1次予選で敗退し、肝心な五輪のほうもメキシコ大会で獲得した銅メダルを最後にすっかりご無沙汰してしまう。プロ創設の
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