【追悼・渡辺恒雄さん】Jリーグ川淵三郎氏との舌戦も、平成プロ野球の危機救った名物オーナー
読売新聞グループ本社代表取締役主筆の渡辺恒雄氏が12月19日、肺炎のため東京都内の病院で死去した。98歳だった。プロ野球・巨人のオーナー、読売ジャイアンツ取締役最高顧問などを歴任し、公称1000万部を誇った読売新聞という巨大メディアを後ろ盾に球界に強い影響力を与えた。 2004年の球界再編時の「たかが選手が」発言による悪役のイメージが定着するが、渡辺氏が「球界のドン」として君臨した平成は、プロサッカー、Jリーグ誕生などで、プロ野球人気が凋落する危機にも見舞われた。起爆剤として「ミスタープロ野球」と呼ばれた長嶋茂雄氏を巨人の監督に再び招聘し、人気回復に努めた。 クラブ名から企業名を排除したJリーグの理念を「空疎」と一蹴し、初代Jリーグチェアマンだった川淵三郎氏(日本サッカー協会相談役)とは舌戦を繰り広げた。敏腕の政治記者で野球には興味すらなかったというが、熱心に協約を読みあさってフリーエージェント(FA)導入など球界改革の旗手として辣腕を振るい、「巨人至上主義」にも映った強引な主張は“独裁者”との批判を受けたが、日本球界の発展に欠かせない人物でもあった。
川淵三郎氏との舌戦の裏側
「クラブの呼称問題などで侃々諤々(かんかんがくがく)の論戦を繰り広げたことが懐かしく思い出されます。恐れ多くも不倶戴天の敵だと思っていた相手が、実は最も大切な存在だったのです。まさに渡辺さんはJリーグの恩人。心から感謝しています」 川淵氏は、日本サッカー協会を通じて追悼メッセージを発表した。 Jリーグ誕生に際し、読売クラブを前身とするヴェルディ川崎の呼称問題に加え、東京への移転構想でも、ホームタウンとの関係を重視するJリーグと激しく対立した。 93年当時のJリーグは、選手のファッションが時代の最先端ともてはやされ、ファンをサポーターと呼ぶ新たなカルチャーを日本に広めた。パンチパーマにセカンドバックのプロ野球選手に、丸刈りの高校球児……。プロ野球のイメージが若者世代から敬遠されるムードの中、巨人のオーナーだった渡辺氏は92年秋、人気回復の切り札として三顧の礼を持って長嶋氏の監督招聘を実現させた。96年のオーナー就任前から主導したFA制度で、各球団のスター選手を豊富な資金力で獲得し、テレビの地上波中継の高視聴率も維持した。 川淵氏と互いの立場を批判したプロチームの呼称は、そもそもリーグの成り立ちの違いが背景にあった。 日本のプロ野球は、メジャーリーグなどの米4大スポーツと同じく、チームの昇格、降格による入れ替えがない「クローズドリーグ」だ。新規参入の壁が高く、球団を持つ企業にとっては希少性が高い。 対するJリーグは欧州型のプロリーグで、新規参入の門戸を開く「オープンリーグ」だが、チーム成績によって昇格も降格もある。チームが降格しても、「地域のシンボル」として存在意義を見出すには、全面に押し出すのは企業名ではなく、地域名ということになる。 プロ野球は12球団しかなく、入れ替えがないからこそ、球団の「独立採算」を理想としつつも、選手補強やファンサービスの向上などへの経営努力を怠れば、親会社が批判の矢面に立つ。支える主体は、オーナー企業なのだ。 メジャーなど北米のプロスポーツも企業名ではなく、地域名が冠になっているが、オーナーたちは資産家グループの集まりで、球団所有も高騰を続けた末の売却益を見込んだ投資の一つともされ、日本にこうしたビジネスモデルは馴染まないだろう。 くしくも、渡辺氏によるJリーグ批判は、川淵氏が「渡辺さんとの論争が世間の耳目を集め、多くの人々にJリーグの理念を知らしめることになりました」と振り返ったように、世間に2つのリーグの存在価値をくっきりと浮かび上がらせた。日本国内では、それぞれの理念に基づき、現在まで「北米型」と「欧州型」のプロリーグが共存する構図が出来上がっている。