安室奈美恵引退に考える昭和平成歌の文化史 もうひとつの太平洋戦争
音楽と文化戦争
これまで書いてきたように、人間は常に文化の戦いを演じる動物である。 音楽にはそれが端的に現れる。 音楽と踊りは祭り(宗教)とともに発達してきたもので、人間集団の情緒的一体性を高める役割を果たす。歌は詩でもあり、祈りや呪いにつうじる言語活動のひとつである。つまり音楽は、人間集団の文化様式を象徴する強い「力」であった。 と同時に、音楽や踊りは、その集団の外部にも伝わりやすい。子供がテレビに合わせて歌ったり踊ったりするのは、それを真似するという本能があるからだ。音楽は、民族や言語や思想を超えて直接伝播する性質をもつのだ。もちろん強い文化様式の音楽は強い拡散力をもつ。いわゆるクラシック音楽が世界の学校の正課となっているのは、長期にわたる西欧文明の優位を物語っている。軽音楽の世界で英米の力が強いのは、彼らが近現代文明の覇者であることを物語っている。 そして同時に、音楽や踊りにはその文化様式の支配力に対抗する力も現れる。僕の言葉でいえば、都市化の力に対する反力としての風土力である。文化の力学というものだ。つまり音楽は、歌や踊りは、普遍性の文化として拡散しやすいものであると同時に、民族固有の文化的情緒を根強く残すものでもある。僕らは日常、無意識にその相克を生きているのだ。 調べてみれば、安室奈美恵は数奇な運命を背負った歌姫であった。 そこに米軍基地という政治問題も絡んでいる。彼女が駆け抜けた沖縄と東京と全国ツアーを結ぶラインには、日本列島の津々浦々の情緒性と英米帝国のグローバル化する文化力とがスパークしたのだ。 もうすぐ平成の次の時代がやってくる。 どのような音楽が流行するのか。どのような文化の戦いが見られるのか。安室奈美恵はどのような「その後」を生きるのか*3。 最近僕は、吉田拓郎とともに森山直太朗のCDを買った。 この原稿を書いているときに、“嵐“が活動休止の宣言をしてマスコミに嵐が吹き抜けた。引退は連鎖するようだ。 注 *1:THE PAGE「政治化した平昌五輪―スポーツと帝国・資本主義、東京五輪が取り戻すべきもの」(2018年2月7日)参照 *2:日本古来の神道と海外から渡来した仏教がその教説において一体化すること。特に平安時代に進行した。文化様式の融合という点で芸能と相似である。 *3:THE PAGE「沢田研二ドタキャン騒動 『アイドル資本主義』と『脚光後の人生』」(2018年10月20日)参照