クラフトビールのブームが終わったとき、「よなよなエール」はどう復活したのか 7年間、眠っていた「IT業界の超大物」の手紙
信州・軽井沢に1997年、日本では当時珍しかったクラフトビールの醸造所として誕生した株式会社ヤッホーブルーイング。「よなよなエール」「水曜日のネコ」「インドの青鬼」など独創的なクラフトビールを次々に生み出す同社は、星野リゾートのグループ会社だ。創業時から在籍する井手直行代表取締役は、当初は地ビールブームの追い風を受けて順調に売り上げを伸ばしたが、地ビールブームの終焉で長い苦戦を強いられた。あきらめずに戦いつづけた井手氏の起死回生の原動力になったのは、7年間眠っていた「IT業界の大物」の手紙があった。 【動画】なぜ事業承継が大切なのか専門家に聞いた。
◆「自然の中で暮らしたい」長野・軽井沢に転職
----ヤッホーブルーイングに入社する前の経歴をお聞かせください。 福岡県の高専を卒業後、電気機器メーカーに5年ほど勤めました。 それなりに楽しかったのですが、誰かの役に立っている実感がわかず、次に環境アセスメントの会社に転職します。 けれど、この会社も自分のイメージとは違っていて、半年ほどで辞めました。 その後はフリーターをしながらバイクで日本中を旅する生活を続け、お金がなくなってきたころに、「どうせなら自然の中で暮らしたい」と考えて、就職雑誌で見つけた軽井沢の広告代理店に営業職として就職しました。 3年ほど勤めましたが、経営者と折り合いが悪くなり、再びフリーター生活に戻ります。 1997年、広告代理店で私の顧客だった星野リゾート代表の星野佳路に、「今度新しい事業をやるんだけど、一緒にどう?」と声をかけられました。
◆星野リゾートの代表から誘われて
----星野さんとの出会いが、その後の井手さんの人生を大きく変えるわけですね。 星野リゾートは当時、軽井沢では有名でしたが全国的にはまだ知名度も低く、採用に苦労していました。 元気のいい営業マンが仕事を辞めてぶらぶらしていると聞いて、私を誘ったようでした。 私はリゾートの仕事にはあまり興味がわかなかったのですが、「新規事業の話だから1回聞いてよ」と言う。 渋々会いにいったら、その足で、すぐ隣町に建設中のビールの醸造所に連れて行かれました。 ----その仕事に心が動いた理由は何でしたか? ちょうど当時、酒税法改正で小規模のビール醸造が解禁され、地ビールメーカーが各地にできはじめていました。 星野は「アメリカで小さな会社が作る個性的なエールビールを飲んで感動し、日本でも広めたいと思った」と、熱く語っていたことに心を動かされたのが第一の理由です。 私自身もビールは大好きでした。 何より、星野という人にとても興味があったんです。 当時30代の若い時から、頭の回転が早く、知識も豊富で、論理的で説得力がある。 周りの経営者とは全然違っていました。 そんなすごい人でありながら、一介の営業マンだった私にも、非常に気さくに話しかけてくれる。 そういう人と一緒に仕事をすることに、魅力を感じました。