桂枝雀と桂雀々、師弟の「奇跡的な類似」と独特な「距離感」…似ていたのは口調だけではなかった!
枝雀そっくりの口調で話す少年
桂雀々を初めて見たのは、上沼恵美子がやっていた昼のワイドショーである。 1976年だったようにおもうが、1977年になっていたかもしれない。 【画像】日テレが失速したのは、「あの番組の打ち切り」が原因かもしれない 京都で見ていたから、関西エリア限定のワイドショーだったのだろう。 まだ枝雀に入門する前で、彼は、ただの松本少年であった。 どういういきさつで出ていたのか覚えていない。 そこに桂枝雀もいた。 いま考えるとかなり不思議な状況である。 少年はいろいろ聞かれ、枝雀そっくりの口調で話した。 落語家になりたい、枝雀の弟子になりたい、というのを上沼恵美子が聞き出していたのだとおもう。ぼんやり見ていたワイドショーでの一シーンなので、細かい部分についての記憶が曖昧で申し訳ない。 松本少年は自分のいまの生活について語り、家に帰っても誰もいない、という話になった。誰もいないので、生けてある花に「ただいま、帰ったで」と話しかけ、出かけるときも「行ってくるで」と話しかけ、何か外であったこともすべて花に向かって話しているというような内容であったと記憶している。 上沼恵美子はその話を聞いて涙を流していた。涙を拭きながら、枝雀に、はよ、弟子にしてあげてください、というようなことを言って、枝雀は困惑していた。いや、急にすぐにというわけにはいかないもので、いやいや、というようなことをごにょごにょと言っていた。 この子は、枝雀に弟子入りしはるんやろなあ、とぼんやり見ていた。
「丁稚に行け!」と怒鳴られて
当時、私は高校を卒業して、大学に入るまでの宙ぶらりんな期間で、つまりは浪人生だったわけだけど、予備校にも行かず落語ばかり聞いてぼんやり暮らしていた。 親はあるとき本気で腹を立てて、「そんなんやったらもう大学なんか行かんと、丁稚に行け!」と怒鳴られた。 丁稚に行け。 昭和五十年代の関西では、まだ、この言葉が現役であった。 どこかに入って修行して、手に職をつけろ、とにかく働け、という意味である。 おそらく徳川様の時代から関西では口うるさく言われていたとおもう。 丁稚に行けと本気で言われて、しばらく考えて、ああ、落語家に弟子入りしようとおもいたったのである。もう一度、親がキレて、本気の本気で、家を出て行け丁稚になれ、と言われたら、落語家に入門しようとおもったのだ。 桂米朝のところとまずおもったが、弟子があまりにも多そうなので、やはり桂枝雀がいいかと考えた。さらに桂朝丸(のちのざこば)も浮かんだのだが、高校時代の落語研究会仲間が、朝丸やとどつかれそうやから枝雀のほうがええんとおもうでと言ってくれた。 そんなことをぼんやり考えている時期なので、この少年のワイドショーが印象に残っている。この子は弟子になりそうやから(あまりに枝雀そっくりの口調でもあったし)このあと入門したら、この子の弟弟子になるんやろなあ、年下の兄弟子かあ、とよくわからないまま考えていた。 私は紆余曲折ありながら東京の大学へ入り、そして松本少年は無事、枝雀に弟子入りして、桂雀々となった。