桂枝雀と桂雀々、師弟の「奇跡的な類似」と独特な「距離感」…似ていたのは口調だけではなかった!
芸人らしい芸だった
わりと早いうちに見かけるようになって、ああ、あのときの少年や、と嬉しかった。なんかすごい小さい子やったのに、気づくと身体も大きくなっていて、驚いた。 明るく甲高い声で、枝雀にそっくりな喋りをする少年であった。 若くして入門したので、かなり丁寧に音をコピーしていたのだろう、そこがすごくおもしろかった。 もちろんコピーしても、本人らしさは出てくる。 師匠はどこかに知的な部分が残っていたが、雀々の場合、振り切って「あほ」のほうに寄っていったように見えた。そっちのほうが胆力がいる。まさに芸人らしい芸だったとおもう。 雀々が似ていたのは、枝雀の「おちょけた喋り」の部分である。 表面はそう見える。 言葉の途中に急にトーンを上げたり、声を変えて日常では使わない音を出したり、枝雀は1970年代半ばに突然、そういう方向の落語を転じて、これが昭和末年の日本の空気と妙に合致して、絶大な人気となった。 雀々はそこがそっくりだった。
似ていたのは表面部分だけではなかった
後年、師匠の枝雀が調子を落としてそのトーンが薄れていたときに、雀々がもともとの枝雀そっくりの口調で変わらず喋るのを聞いて、師匠の枝雀が「もとの枝雀」に戻れた、という話を聞いたことがある。 まあ、こういうエピソードは話半分で聞いたほうがいいのだが、でもそういう師弟関係ではあったらしい。「負うた子に教えられ浅瀬を渡るのたとえどおり、」という上方落語のフレーズが浮かぶ(そういえば、このフレーズは江戸方ではあまり聴かない)。 そしてまた枝雀もそこそこ無理をして、あの明るい枝雀落語を演じきっていたのだ、ということもわかって、これはこれでいろいろおもうところがある。 ただ、雀々が師匠に似ていたのは、その表面部分だけではない。 桂枝雀の落語の本質は、私がおもうに、この「手振り身振り、または素っ頓狂な発声によって」起こす笑いにはなかった。 もちろん昭和末年の客はここに熱狂していた。 真似てもすごく受ける部分であったので、模倣者が続出した。 ただ、少しやりすぎ、というところもあった。 立川談志はあからさまにあれは落語ではないと言っていたし、後年、笑福亭仁鶴も似たような感想を洩らしていたのを見たことがある。 だから枝雀落語の芯はそこではなかったと、あらためておもう。