売り上げ重視の出版業界と、作法が厳しい学問の世界は、どちらが「自由」なのか?
パンのためのペンではなく、知的な思想のためのペン
他方、ノンフィクションの賞を受賞した研究者たちもいる。その作品はどれも素晴らしく、まさにアカデミック・ジャーナリズムと呼ぶべき仕事である。 その書籍には、調査は科研費(科学研究費)によって助成された旨が記されているものもある。 パンのためのペンではなく、知的な思想のためのペンとして、落ち着いて誠実に仕事をする環境を整えるうえでも、アカデミズムとジャーナリズムの枠組みを柔軟に考え、協働できることがあるはずだ。 自分自身のディシプリンを構築すると同時に、両者の相互乗り入れを可能にする手掛かりを掴めないだろうか。何かあれば現場に、というのは長年の習い性である。まずはアカデミアの世界を我が目で確かめたいと思った。 実際に学問の世界に飛び込んでみると、確かに予告されていたように学術には不自由があった。 手法も分析も発表も、厳密な手続きによって規定され、その作法の中で行わなければスタートラインにも立てない。倫理審査委員会の承認を得たり、当事者に同意書をもらったり、希望があれば反訳を確認してもらうなどの大変さもある。考察にも枠を超えた踏み込んだ記述は許されない。 しかし一方で、フリーランスの書き手である私には、アカデミアの方が自由だと感じることもあった。出版不況もあり、ジャーナリズムの雑誌媒体では市場の反応をダイレクトに考えなければならない。 編集者も出版業界全体の売り上げ低迷の中で、「売れること」に重きを置いた「マーケティングの専門家」になることが要請されていた。 だが、学問も出版業界も市場を見るだけでは、知的ジャーナリズムは衰退してしまう。 そこで今必要とされることの1つのヒントとして「出版の未来と総合雑誌の役割」というインタビューで『アステイオン』の初代編集長・粕谷一希氏が語っている「思想」に注目したい。 粕谷氏はアカデミズムとジャーナリズムの両方を担う総合雑誌に必要な思想として3つの大きな命題があると述べている。 1つ目は、人生をいかに生きるべきかを問うこと、2つ目は、社会がどうあるべきかを問うこと、そして3つ目は世界にはどういう意味があるかを問うことだと述べ、河合栄治郎の『学生叢書』に載っていた狩野亨吉の「観念論と唯物論」という論文を引き合いにこう話す。 〈宇宙は生成発展している。永遠に解けない謎ですが、その生成発展には何か目的があるはずだというのが観念論で、何もないというのが唯物論だと。実に雄大な宇宙論です。 地球もいずれ消滅するということですが、人間が生きていく限り、そういう問いを持ち続けながら歩くより仕方がない。それに文学も、学問も答える。 永遠に一つの答えはないのに、答えようと努力する。またそういう問いを発するところに総合雑誌の意義がある〉 私は「答え」を求めてアカデミアの世界に足を踏み入れたが、そこに答えはなかった。1つの答えはないが、それに答えようと努力する歩みが学問であると知った。 すぐに結論や要点を要求されるような伸びやかさのない空間では、知的な議論は醸成されないだろう。目の前の事象を追うだけではなく、また細分化しすぎた象牙の塔に閉じこもるだけではなく、生きることや社会、世界の意味という基本をもう一度問い直すときではないか。 そのためには、アカデミアとジャーナリズムは互いを縛るものから自由になり、柔らかく乗り入れしていきたい。『アステイオン』95号ではまさに「アカデミック・ジャーナリズム」特集が組まれ、かつては自由に行き来ができた両者の新たな地平を見せてくれている。 『アステイオン創刊30周年ベスト論文選』には、サントリー文化財団の設立に関わり、日本を代表する知性と呼ばれた山崎正和氏の心に残る文章が掲載されている。 「アステイオン(都市的)といえば、アゴラ(広場)とアカデメイア(学園)の共存が不可欠だろうが、両者の自然な交流がこれほどうまくいった雑誌も少ないのではないだろうか」 そして、「『野暮は言わない』のが参加者の不文律」だと続け、そのしなやかな強さは百年の風雪にも耐えるはずだと綴る。 今、知的ジャーナリズムに必要なのは、このようなアステイオン的な思想ではないか。人はいかに生きるべきか、社会はどうあるべきか、世界にはどんな意味があるかという根源的な問いを続け、答えを模索する場が100号も続いてきたことに希望を感じる。 そして、このような知的な交流ができる場、アゴラとアカデメイアが野暮を言わずに、自由に交流できるリアルな社交の場を私ももっと作っていきたいと願っている。
河合香織 (ノンフィクション作家)