「知の王者」物理学の栄光と黄昏……「コスパ時代」に科学が生き残る道はどこにある?
「目の覚めるような」ものの見方
筆者は、人間の生き方に関われるのは、所詮は広い教養としての”ものの見方”からのリターンであろうと考える。このことを目指して、素粒子や膨張宇宙を超えて、さらに新しい世界に挑戦しているのである。 このため、しばしば途中では少数の専門家だけで迷宮をさ迷うことは仕方ないであろう。だから、サイズはともかく、そういう営みを公共財として許容する社会システムが必要であると考える。 それでは、そういう”ものの見方”として21世紀に期待していいものは何かと問われれば、筆者は「時間と空間の考え方に目から鱗が落ちるような話が出てきますよ」と言いたい。 近代化した社会で、人々があまりにも物理学に支配されているのは時間と空間に関する観念である。原子からクォーク、レプトンまでつきとめたのが20世紀の物質の理論であったとすれば、21世紀には古典的な相対論と物質の量子論を統一する、時間と空間の目の覚めるような”ものの見方”が完成すると想像する。
物理の「切り売り」
イギリスを旅するとよくローマ時代の遺跡というのに出会う。ローマからはるばるスコットランドとの境界にまでやってきたローマ帝国の壮挙に驚くと同時に、「どうせ、そんな巨大な帝国の領土を政治的に支配できるはずがないのに」とわらってしまう。ローマ市内の崩れた遺跡にも拡大する帝国の地図を並べたものがあり、愚かさをさらしているように見える。 しかし、ローマ帝国の支配はその帝国の版図を超えて、文化や社会制度のかたちで確実に後の歴史に浸透している。「ローマ」の影響を排除して、イギリスになったわけではない。歴史は重層化していくのである。20世紀の物理学の進展と21世紀の科学の展望を考える際に必要になる重要な視点である。 ”ものの見方”としての物理学は軽快でハンディでなければならない。「何もかもこれが支配している」という法則観は強制を感じさせ、前向きな意欲をそぐものである。物理の目標である「普遍性」は「全支配」の意味ではなく、「切り売り」可能性にあるのではないかと考える。 物理帝国の真価は版図の大きさではなく、故事来歴から自由な「切り売り」可能性の広さで測られるようになるのかもしれない。 「物理学の世紀」を代表する巨星アインシュタインの”神話”については「世界が熱狂「アインシュタイン現象」 その裏にあった「西洋の没落」への不安と「原爆」への予感」を、そしてそれに続くマンハッタン計画から原爆投下へ至る歴史については「原爆が焼きつけた物理学の「栄光」 オッペンハイマーのマンハッタン計画とアトミックパワー」を、オッペンハイマーの失脚から冷戦と物理学の蜜月、そしてその後の顛末については「「物理帝国」のヘゲモニーを牽引した冷戦の力学 しかし「核のツケ」はいつ誰が払う?」を、それぞれご覧ください!
佐藤 文隆(京都大学名誉教授)