「知の王者」物理学の栄光と黄昏……「コスパ時代」に科学が生き残る道はどこにある?
物理学の公共性と社会性
1920年代のアメリカ経済の繁栄は大型望遠鏡の建設を可能にしたが、これが純粋研究大型化のはしりとなった。続いて、大戦後の米ソ冷戦は高エネルギー物理や宇宙科学などの純粋研究の大型化を可能にした。 しかし、アメリカ議会は1993年にSSCと呼ばれる素粒子実験用加速器の建設を中止させた。この”事件”は、物理学とは何であったかを問う重要なきっかけになった。 素粒子物理や宇宙物理を人間世界に展開して利用したり、その理論が人間世界を理解するのに役立つことはないであろう。しかし、これは単に経費の問題ではなく、人間世界との関わり方の問題である。1970年代後半に完成した素粒子の標準理論のすばらしい真髄を理解できる専門家は、一握りの数である。そして、それが電磁気学や量子力学のように、広い分野の科学者や技術者が学ぶ教科に今後なっていくとは思えない。 もちろん、研究は自由であるし、それに熱中する人間は必ずいる。「面白さを社会が理解する必要がある」と主張する同僚が多いが、「そんなに面白いものなら何もわざわざ税金を使わなくてもいい。警察や国防、河川の管理やごみ処理、医療や福祉などなど、放置しておいては誰もやらないような仕事にこそ税金は使うべきだ」という主張を誘発するだけである。 一部の人にとっては、素粒子の研究など禁止されても隠れてやるほどに魅力的なものであることは自明である。しかし、音楽や文芸を見れば明らかなように、「面白さ」や「魅力」が税金を引き出す根拠にはならない。 問題はそういう営みを税金で賄う公共財として社会が認知すべきかどうかである。公共性を主張すれば、ある種の社会性を持つ使命に言及しなければならない。 巨費を要する純粋研究も科学技術の先端を切り開くので、少なくとも公共財の条件は総体としてクリアするだろう。ただ、とかく批判がある「大型土木工事」もこれをクリアしている。いずれにせよ、そうした副産物ではなく、そこで見出される高度な知識そのものがどうであるのかに正面切って答えねばならない。