第一次世界大戦から100年 どんな戦争だった?
「三国同盟」と「三国協商」
同盟国は、「三国同盟」を結んだドイツ、オーストリア、イタリアが中心。北アフリカの植民地争奪戦で、フランスに対抗するという「利」で一致していました。ドイツは皇帝が新航路開拓・軍備拡張に積極的で、他国の脅威になりつつあり、現在は小国のオーストリアも中央~東ヨーロッパ一帯を支配する強国でした。このうちイタリアは、オーストリアと領土問題の対立で「害」が表面化したため、たもとを分かちます。後にこの空席に加わるのがトルコです。かつて栄華を誇ったトルコ(オスマン帝国)は国力の低下がいちじるしく、南下してきたロシアに対抗する「利」から、ドイツに接近したのでした。 連合国は、「三国協商」を結んだイギリス、フランス、ロシアが中心。植民地の再配分を求めるドイツを包囲する、という「利」で一致していました。イギリスはどの国とも同盟を結ばない「光栄ある孤立」の道を歩んでいましたが、日英同盟を皮切りに、フランスと協商を成立させ、日露戦争後はロシアとも手を結びました。露仏も同盟関係にあったことから、「三国協商」へと発展していったのです。 この2グループの対立に火をつけたのが、前述の「サラエボ事件」です。バルカン半島は、スラブ系を主とする多民族、イスラム・正教系・カトリックという多宗教が入り混ざり、争いが絶えなかったことから、「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれていました。ここにゲルマンの親玉ドイツとオーストリアが進出してきたため、セルビア民族主義の青年がその「害」の象徴であるオーストリアの皇位継承者を襲撃したのです。セルビア人は、ロシアと同じく正教系のスラブ民族です。オーストリアがセルビアに宣戦布告すると、ロシアものろしを上げたのでした。
予想以上に長引いた戦争
日本も日英同盟を口実に、ドイツに宣戦しています。中国や南洋諸島にあったドイツ権益がねらいでした。しかし、いっぱんの国民には切迫感が欠けていたようです。反露感情の高まりで起こった日露戦争とちがい、ドイツに対する悪感情は希薄で、「害」も「大義」も見出せなかったのでしょう。結果的には戦争特需という「利」に浴したものの、主戦場はヨーロッパであり、「遠い海の向こうの戦争」でした。 日本の特需の背景には、大戦が予想をうわまわる物量戦・長期戦になったことがあります。徴兵制によって数千万の兵士が戦場にかり出され、戦車・航空機・潜水艦(Uボートが代表)や毒ガスまで使われました。大量の兵器・物資を供給できる工業力が問われたことから、史上初の「経済戦争」という見方もあります。その舞台裏で「利」を得た日本は、世界3位の海運国へと躍進し、大戦前にあった約11億円の債務も完済しました。 戦況は、短期決戦を想定していたドイツのもくろみが外れ、フランスとの西部戦線、ロシアとの東部戦線とも持久戦に入りました。海上戦でも一進一退の攻防がつづきましたが、17年4月にアメリカがドイツに宣戦すると、連合国が圧倒するようになります。18年になると、総力戦で疲弊したトルコ、オーストリアが降伏し、11月にはドイツも連合国と休戦協定を結びました。そして翌19年6月、講和条約(ベルサイユ条約)の締結によって、犠牲者1500万人以上ともいわれる 未曾有の大戦が終わったのです。