1964年の新潟地震、知っていますか? 液状化注目契機に、建物倒壊で26人死亡
新潟市中央区に住む近藤武夫さん(82)は60年前、市内の勤務先会社のロッカー室で突如、「経験したことがないくらい大きな揺れ」に見舞われた。建物は傾き、ひび割れた道路が目に飛び込んできた。製油所の石油タンクは出火し、黒煙が空を覆う。「こんなことが起きるのか」。その時、1964年6月16日午後1時過ぎ。建物約2千棟が全壊、26人が亡くなった新潟地震のことである。液状化現象が注目されるきっかけにもなった地震を、振り返る。(共同通信=渡辺敦、神部咲希) 【写真】お棺の脇に膝をつき、遺体の出血や体液の流出を止めていく。笑いじわを蘇らせ、「これならご遺族に顔を見せられる」。 犠牲者300人を復元した「おくりびと」は、仕事を投げ打って能登へ向かった
▽地割れ、冠水、曲がった線路 近藤さんは、勤務先から家に帰って家族の無事を確認すると、「何が起きているのか」との好奇心から、家にあったカメラを手に、バイクで市内を駆け回った。何日かかけてフィルム2本分、写真70枚近くを記録した。 撮影した白黒写真には大きく折れ曲がった電柱や、地割れの様子、津波で冠水したとみられる道路を膝まで漬かりながら歩く人の姿が写されている。その衝撃の大きさは今でも鮮明だ。 今では写真を趣味とし、アマチュアカメラマンとして活動する近藤さん。写真は長く自宅に保管していたが、2024年1月の能登半島地震を受け、新潟地震を振り返る機会にしたいと、6月に市内で写真展を開いた。会期の4日間で800人以上が訪れた。 新潟市西区に住む阿部利男さん(85)も新潟地震の経験者だ。当時、市の保健所で診療放射線技師として働いていた。「桁違いの揺れ」に襲われたのは昼休憩後。窓から外をのぞくと、道路が割れ、水が噴き出している。
家族が心配で退勤し、自宅に向かって歩き始めると、電車もバスも止まっていた。真っすぐで遠くまで見えた線路も、曲がって先は見えない。「とにかく不気味だった」。後日同僚から聞いた話では、市中心部に架かる萬代橋は人でごった返し「津波が来る」とパニックになったという。 2時間後、約8キロ先の自宅にたどり着く。家族は無事だったが、液状化で家は基礎部分が破損し、傾いていた。当時の住宅は簡素な造りが多く、自宅の基礎もコンクリートなどでなく、木材と石で造られていたという。市からは半壊の判定を受け、建て替えた。 ▽地震の規模は阪神大震災上回る 新潟地震の震源は新潟県下越沖で深さは約34キロ、マグニチュード(M)は7・5を記録した。1995年の阪神大震災、2016年熊本地震の「本震」がM7・3だ。Mを比較すると、それらを上回っていた。 新潟市では当時の震度階級で震度5を観測した。信濃川に架かる昭和大橋は崩落し、冒頭で触れた製油所のタンクは約2週間燃え続けた。