薩摩の恐るべき剣を見せた示現流の開祖<東郷重位>
戦国時代。剣をもって戦場を往来し、闘い抜き、その戦闘形態が剣・槍・弓矢から鉄砲に変わっても、日本の剣術は発達し続け、江戸時代初期から幕末までに「剣術」から「剣道」という兵法道になり、芸術としての精神性まで待つようになった。剣の道は理論化され、体系化されて、多くの流派が生まれた。名勝負なども行われた戦国時代から江戸・幕末までの剣豪たちの技と生き様を追った。第8回は示現流(じげんりゅう)の開祖、東郷重位(とうごうちゅうい/しげかた)。 示現流には、他流の剣技のように形式化した構えや足のさばきなどはない。いわゆる「八相」と呼ばれる天を衝くように剣を持った腕を上げた構えから、ひたすらに斬り下ろす。ただそれだけのことだが、その剣技の驚くべき速度と力は、他流の誰もが恐れた。示現流は、幕末から戊辰戦争、明治に入ってからの西南戦争までも威力を発揮した。薩摩藩士の示現流に斬られた者は、袈裟懸(けさが)けに臍(へそ)の辺りまで切り裂かれて転がっていたという。 この示現流の開祖・東郷藤兵衛重位(とうごうとうべえしげかた)は、薩摩家の家臣・東郷重為の2男として永禄4年(1561)に生まれた。子どもの頃から兵法を好み、丸目蔵人(まるめくらんど)による「体(大)捨流」を、蔵人の弟子筋に当たる藤井六弥太から伝授された。 天正16年(1588)、豊臣秀吉に屈服した島津家の当主となった義弘(よしひろ)に従って上京した重位は、禅寺の天寧寺の住持が庭で箒(ほうき)を使っている時に、落ち葉を掃き込んだ後、ふいに箒を持ち替えて、天にまで示すかのように腕を突き上げてヒュッヒュッと振り下ろした。それを見た重位は、箒の先が木刀のように思われた。重位は、これを見て住持に弟子入りを頼み込んだ。実はこの住持は、飯篠長威斎(いいざさちょういさい)の「天真正神道流(てんしんしんとうりゅう)」を学んだ剣客であり、人を斬って出奔し、後に出家した人物であった。結果として、重位はこの住持から「神道流」を伝授された。 薩摩に帰国した重位は、新たに会得した剣技の工夫を試みた。かなり荒々しい剣技になっていく。薩摩家にいた体捨流(たいしゃりゅう)の達人と称する人々と立ち合っていずれも勝った。負けた者は重位の弟子になる。この噂が新しい藩主・家久の耳に入り、薩摩家の兵法指南であった体捨流の達人・東新之丞との立ち合いが決まった。東は重位にとっては恩師筋にも当たる人物であった。立ち合いは一瞬に決まった。八相から上段に打ち込む重位の木刀を、受け止めたはずの東の木刀は、真っ二つに折れ、東は頭を割られてしまった。この剣技に感心した家久は重位を新たに藩の兵法師範とした。「示現流」という流派の名前も、家久が名付けた。「薩摩示現流」の誕生である。 重位は、他流試合も数多く試みている。そして勝利を得ること48回という。ある時期、重位の示現流を知った柳生新陰流(やぎゅうしんかげりゅう)の高弟2人が立ち合いを望んだ。家久は「柳生恐れることなし」として「遠慮は不要」を重位に言い渡した。そして重位は勝った。2人は即座に重位の弟子となった。 重位には晩年のこんな逸話も残る。町中に野犬が溢れて市民に迷惑を掛けた。重位の嫡子・重方と高弟の2人が野犬を残らず退治して帰った。その際に「斬る時に刀の刃は地面にも当たらず、損傷しなかった」という報告を受けた重位は、太刀を取ると「よいか。斬るとはこういうことだ」と言うなり、傍らの碁盤を斬った。重位の太刀は分厚い碁盤を両断し、畳を割き、さらに床下にまで達していた。「斬るならば大地までも斬るべし」ということであったという。重位は82歳の高齢を生き、寛永20年(1643)に没した。
江宮 隆之