スペンサーの「適者生存」は明治時代の日本にどのように輸入されたのか?
ダーウィンを祖とする進化学は、ゲノム科学の進歩と相まって、生物とその進化の理解に多大な貢献をした。 【写真】じつは『種の起源』に「適者生存」は一度も使われていなかった…! 一方で、ダーウィンが提唱した「進化論」は自然科学に革命を起こすにとどまらず、政治・経済・文化・社会・思想に多大な影響をもたらした。 新書大賞2024で10位入賞し、たちまち4刷となった、話題の『ダーウィンの呪い』では、稀代の書き手として注目される千葉聡氏が、進化論が生み出した「迷宮」の謎に挑む。 本記事では〈じつは誤解されているスペンサーの「社会進化論」…意外と知らない、スペンサーが唱えた社会進化論の概念〉にひきつづき、スペンサーの思想と日本で彼の思想がどのように受け入れられたのか、くわしくみていく。 ※本記事は千葉聡『ダーウィンの呪い』から抜粋・編集したものです。
植民地支配と進化論
スペンサーはエヴォリューションの法則に基づき、独裁的な軍事型社会から自由主義の産業型社会へと直線的に発展すると考え、英国と米国を、最も自由主義的な進歩した社会と見なしていた。社会や国家をその構成員の進化レベルと合わせて、原始的なレベルから発展したレベルまで、序列化したのである。その意味では、彼の思想は差別的であった。 しかし、決して植民地主義を支持してはいなかった。スペンサーは、次のように述べている。 「我が国の植民の歴史は、その地の先住者に与えた不正と残虐行為に満ちている(中略)、東インド諸島の住民の悲惨な状況は、国家による植民の非人道性を雄弁に物語っている」 スペンサー自身が人種差別による搾取や植民地主義を正当化したという事実はないのである。 皮肉なことに、その自然法則による社会の直線的発展の説明は、拡大する大英帝国の植民地支配を擁護するうえで有効であった。そのため、スペンサーの思想は、英国を始め欧州列強により、植民地主義の正当化に利用されてしまった。 19世紀末には、英国社会の貧困層の悲惨な実態が知られるようになり、福祉と貧困対策への政府の関与に反対するスペンサーの主張は、社会から受け入れられなくなった。またその思想は、善や道徳といった非自然物つまり価値を、自然物つまり事実と混同する自然主義的誤謬を犯しているとの批判を受け、さらに多くの欠陥が示されて、生物学だけでなく、新しく勃興した社会学からも支持を失った。 その古きよき時代の博愛精神と自由に満ちた思想が招いた結末は、スペンサーの数少ない友人だったハクスリーが残したこの言葉で表現できるかもしれない。 「美しい仮説が醜い事実によって打ち砕かれる」