スペンサーの「適者生存」は明治時代の日本にどのように輸入されたのか?
明治時代に輸入された「適者生存」
スペンサーの思想は明治時代の日本でも注目を浴び、特に自由民権運動に大きな影響を与えた。社会を構成する個人の自由と自発的な協力によって進歩する社会、という考えが、自由民権運動を基礎づける原理と受け取られたのである。 また山下重一や長谷川精一らによると、スペンサーは英国公使だった森有礼と親交を持ち、森の憲法構想に助言を与えたとされる。 その後、明治憲法を起草した金子堅太郎が1891年に渡英して、明治憲法の条文をスペンサーに見せ、「あなたの進化論の原則に従い、日本国の歴史と人民の進化の程度とを根本に、外国の法律等を参考に(中略)法律をつくりました」と説明した。 これに対しスペンサーは、新しい制度は、古いものを取り換えるのではなく、現在のものに接ぎ木して、古いものを修正し、連続性を壊さないようにするのが重要だとし、欧米のような自由な政治制度をいきなり実現するのは難しい、と、森が示していた憲法観とほぼ同じことを述べたという。 日本の教育制度を構築し、初代文部大臣を務めた森の教育観には、スペンサーが強く影響したと言われる。しかし森が国民教育に導入した軍隊式の集団的訓練法は、スペンサーが主張する、強制されない自発性重視の教育法──機械的な暗記を時代遅れと見なし、子供の発達段階に応じて楽しく、興味を持たせる探求的で自由な教育法とは異なるものである。 スペンサーの思想をよく理解できていなかった可能性もあるが、憲法構想の話と同じく、「教育は精神の進化の自然なプロセスに一致しなくてはならない」というスペンサーの考えに従ったのかもしれない。 次第に保守化したと言われる森だが、根幹の部分には、日本の国際的地位への危機感と発展を目指す革新的な思想があったと思われる。実際、封建制への逆行により社会の発展を阻害するとして、儒教思想の教育への介入には、最後まで抵抗していた。残念ながら森の死後、それは教育勅語の形で実現し、森が危惧した結末を招く要因の一つとなった。 森は英国でスペンサー以外にも、多くの科学者と交流を持っていた。英国公使の任を終えて帰国する際、英国紙のインタヴュー記事に森が残したこんな言葉がある。 「市場と産業の独占をめぐる国家間の競争は止むことなく非情である。私はそれに抗議しないし、する気もない。民族の進歩とは、適者生存によるものであり、また自然選択による弱者の排除によるものである、そして経済競争は、より優れた生物群がより劣った生物群に勝利する一つの形である、と私は学んだ。日本がその競争で過去に占めてきた位置より、とりわけ傑出した位置を占められるよう、私は望んでいる」 その良し悪しは別の話として、「進化」「闘争」そして「ダーウィン」の呪いは、近代日本の法制度と教育制度に、最初の時点でもうしっかり取り憑いていたのである。 * 連載記事〈多くの人に誤解されているダーウィンが言った「進化」の本当の意味…「進化」という語を最初に使ったのはダーウィンではなかった「驚きの事実」〉では、ダーウィンが言う「進化」の意味について、くわしくみていく。
千葉 聡(東北大学教授)