綾瀬はるかが〝無名の誰か〟に転生するために費やした努力の跡を見よ「ルート29」
踊ることが目的の舞踊のような映画
今年の東京国際映画祭に感謝したいのは、この三つのシーンの主人公が巡り合い、ただそれを確認するために映画館に駆けつけたくなる想像を超えた化学反応を起こす作品に出会わせてくれたこと。そう。 ガラㆍセレクション正式出品作の「ルート29」である。 どちらかというと、この映画は詩的なのだ。それは原作が中尾太一の詩集「ルート29 解放」だという理由だけではない。フランスの詩人ポールㆍバレリーは、詩と散文の違いを論じ、前者を舞踊、後者を歩行にたとえた。散文は歩行と同じようにひとつの目指す地点があり、そこに到達することを目的とするが、詩は舞踊のようにある対象、すなわち一つの地点に向かうのではなく、行為そのものが目的になるのだという。1年ぶりに東京で再会した森井監督の「作意的な意味や方向性を与えず、不思議なものを不思議なまま描きたかった」という述懐は、(もちろん森井監督がバレリーの見解によって映画を作ったはずはないが)恐ろしいほどぴったりと当てはまる。 ただ、「ルート29」が持つ真の美点は、このような「ポエティック・ナラティブ」が、それが悲しみなのか、驚きなのか、憐憫(れんびん)なのか、あるいは愛なのか、定義しにくい感情となって胸に入り込み、その余韻が何日も続く珍しい映画体験につながることである。それだけではない。ひとつひとつがルネㆍマグリットのシュールレアリスム絵画か、ティムㆍバートンの初期作品を連想させるミザンセーヌで構成されている驚くべき場面は、その上にサウンドで水のイメージをかぶせる極めて新鮮な手法で観客を魅了し、まるで仮想現実の挿絵が続く絵本のようだ。
大沢一菜は世界に解放された
一方、映画に対する賛辞を超えて感謝までしたくなるのは、デビュー作が上映されただけでヨーロッパと韓国にマニアを量産した監督が、それに満足せず悩みに悩んで、大沢一菜という「日本映画の未来」を、「こちらあみ子」のおばけばかりの小さな部屋から出して、不思議でありながらも豊かな世の中の冒険へと導いてくれたこと。 またこれに加わるのが、今までの作品で演じてきた人物のイメージから遠ざかり「ただ、そこにいる」無名の誰か、つまり家具もない家でいつも同じように見える服だけを着て過ごすトンボ、あるいはのり子として生まれ変わった綾瀬はるかの存在感である。涙を流しながら脚本を読んだというものすごい吸収力と、同じくらいとんでもない情熱。あるシーンを演じるために、がらんとした部屋でわざとしばらく待機していたという努力の跡は、ランニングタイム120分の映画の随所で見られる。