20~30代の観客が急増する理由とは? 特異な集団「唐組」という生き方<ルポ:紅テントと「特権的肉体」>
役者の生活はすべて芝居のためにあり、劇とは役者の肉体そのもの
どんな仕事も専門化、分業化、時に外部委託すれば生産効率は上がる。それを目的化するのが資本主義だ。しかし唐組の役者たちは、なぜ舞台に立つよりもはるかに長い時間をかけてテントを張り、演劇活動にまつわるすべてのことを自分たちの手で担うのか。それは「ソフトだけではなくハードを作る」と言った唐の信条によるところが大きいだろう。ソフトとはもちろん芝居のことだが、ハードは紅テントのみを指すのではなく、生活基盤すべてを含んでいる。 唐は昔、アルバイトに出かけようとする役者に「バイトなんかするな」と言ったという。理不尽ではあるが、唐にとって役者の生活はすべて芝居のためにある。唐は27歳のときに『特権的肉体論』をものし、後年までその理論を自らの演劇の中核に据えた。その中で唐は、他人に血を流させ、それを観察して芸にするような芸術至上主義者の態度をあげつらい、次のように書く。 * * * * * 他人の血を吸って咲く芸は、芸道のアカデミズムしかつくらないだろう。私たちが現実にさし出して見せる芸は、現実の中で流した自らの血によってしか償えないし、それによってまた、芸は卑俗でありつづけるのだ。それこそ現実的というものだ。(中略)それは、一介にして朽ち果てることによって、現実的には卑俗であっても伝説的には高貴なのだ。卑俗さが尊厳さを切って見せるように、特権的肉体が肉体を切らねばならない。この時表現は、街のド真ん中で遠征と襲来を一挙に現実化させる時だ。 『特権的肉体論』(白水社)「いま劇的とはなにか」より * * * * * 唐の言う特権的肉体とは、まず、訓練され均質化された芸術のための身体ではなく、その人唯一の背景──個人の人生を刻み込んだ肉体のことである。この肉体が己を凝視し、また観客に凝視されるとき、特権的肉体が立ち上がり、劇が始まる。 若いころは金粉ショーダンサーとして全国を廻り、倒れるまで舞台に立ち続けた唐にとって、劇とは役者の肉体そのものだった。だから彼らは舞台に立つために血を流し、己の肉体を凝視しなければならない。それが紅テントを張り、生活のすべてを芝居に捧げるということだろう。「三度の飯を食うように芝居をしたい」という言葉の真意は、ここにある。