20~30代の観客が急増する理由とは? 特異な集団「唐組」という生き方<ルポ:紅テントと「特権的肉体」>
今なぜ、唐組の公演に若い観客が増えているのか?
長野での『泥人魚』の公演は、週末のたった2回のみ。夕闇訪れる時間になると、唐と同世代の人々や、その子供世代、さらに小さな子供たちまで、幅広い層の人々が公園に集まり、紅テントの中に吸い込まれていく。かつて寺山修司が、唐を自身の劇団に誘った際に「俺はサーカスのように移動する劇団を作る」と語ったことにヒントを得て、唐が生み出したこの紅テントという演劇装置。街なかや河原、山の中に突然現れるこの異様な建築物は、その内部に入ると、真っ赤なひだに包まれるような非日常的な感覚をもたらす。 その登場初期から「子宮」にたとえられてきた赤いテントの中に腰を下ろし、隣の客の息遣いを感じながら、観客は芝居を体感する。とてつもないスピードと声量で発される唐組の役者たちのセリフは、吹き荒れる暴風のようだ。唐はその演出において「水」を頻繁に舞台に上げたが、この『泥人魚』でも、劇中で汚泥を含む水を張った大きな水槽が運び込まれる。「ガタ土」と呼ばれる泥の堆積した諫早湾の海を模したものだ。 この中に、かつて唐は頭から飛び込んでのたうち回り、今は座長代理の久保井がその役を引き継いで泥水まみれになっている。前列の客にも水がかかる。あらゆるものが清潔に、自動化され、公衆トイレでさえウォシュレットが設置されるような現代には、まったくそぐわない演出。 しかしコロナ禍を経て、唐組の公演は若い観客が一気に増えているという。特に東京公演では、20~30代の客の姿がかなり多く見られる。 アングラ演劇が発展した高度経済成長期の残り香さえ知らない世代が、今なぜ唐の世界に惹かれているのか、その理由はさまざまだろう。だが、名も知らぬ200人と過ごすこの紅テントという空間で、役者たちの発する過剰なエネルギーを浴びることは、肉体がデジタル技術に置き換えられつつある現代にあって、ほかでは得られない経験であることは間違いない。そして猛々しい「荒事」を特徴とする唐の芝居は、よく見れば、弱い者や貧しい者、忘れ去られたもの、個人の小さな世界への感傷に満ちている。 元気だったころは客と口論して殴り合いまでするほど血気盛んだった唐は、一方で限りなく優しく繊細な人間だったという。創作において扱うテーマは社会性のあるものが多かったが、どの作品もその核には感傷と詩情が横たわっている。