【特集】全日空初代社長 美土路昌一を振り返る 夢と希望が広がるよう願いを込めて/岡山・津山市
津山高校は1895年の創立以来、地域に根ざし、数多くの卒業生を社会に送り出してきた。その中でも、全日空の初代社長である美土路昌一は、津山から世界を舞台に活躍した特別な存在だ。新たな年に夢と希望が広がるよう願いを込め、この故郷の偉人を振り返る。 【写真】ライト兄弟記念の松の説明看板
美土路昌一は、1886年7月16日、中山神社の社家に生まれた。学生時代は執筆活動に熱中し、勉強はあまり気にせず小説家になる夢を抱いていた。学校の成績は中くらいだったため、早稲田大学に入学が決まった際は先生らを驚かせた。当時、美土路家は経済的に苦しい時期で、青春時代にはかなり重荷を背負っていた。学費のため雑誌編集のアルバイトを始め、家計を支えた。その頃、小説家志望の先輩の中に新聞社に就職した者が何人かいて、その採用には学歴の区別がなく、中退でも条件は同じとの話から、貧乏生活から抜け出すため、大学中退を決断。1908年、元日付で朝日新聞社の記者となった。当時、同社には小説を担当していた夏目漱石、校正部員に石川啄木らがいた。
飛行機と美土路は切っても切れない関係にある。美土路が入社後、常務・東京本社編集局長兼航空部長を務めていた1937年。エドワード8世の戴冠式に合わせたニュース映像の速報を提案し、ロンドン間飛行が決行された。4月6日午前2時12分4秒、500万件の公募の中から名付けられた神風号は立川を離陸。悪天候で予定より4日遅れ、日本時間の10日午前0時30分にロンドンへ到着した。
飛行時間は94時間17分56秒、飛行距離は1万5357キロに達し、世界記録を樹立。その後、安全を期すため船での帰国案も出たが、美土路は断固として帰還飛行を命じた。21日午後3時45分、神風号は無事に羽田飛行場に着陸。操縦士は飯沼正明、機関士は塚越賢爾。戴冠式のニュース映像は大きな話題を呼んだ。
1945年4月、朝日新聞社を退社。故郷の農場で、青年を集めて新しい国づくりをしながらのんびりと過ごすつもりであった美土路は、終戦で職を失ったパイロットたちの救済を考えた元朝日新聞社航空部長の中野勝義の説得を受け、全日空の前身となる興民社を創設。「飛行機乗りを救う」という使命のもと、1946年に同社の理事長に就任した。1952年には日本ヘリコプター輸送を設立し、57年に極東航空(大阪)と合併。商号を全日空空輸株式会社と改め、初代社長に就任した。その後、「現在窮乏、将来有望」のスローガンを掲げ、日本を代表する航空会社の礎を築いた。