東大初の女性教授が「女性の研究」をキッパリ拒否した理由
しかし、日本では、男女の違いよりも先輩・後輩の序列のほうが重要で、性別はそれほど重要ではありません。かつてのエレベーターガールのように女性だけの職場においてもタテはありますし、男性と女性が混在していてもタテなのは変わらないのです(注5)。 中根は「タテ社会」の日本も東大も、アメリカ社会より「ずっとフェア」であり、「地位を築いてしまえば差別はない」とすら主張していた。自らのキャリアを振り返り、「周りの先生たち」のみならず「学生にも女性に対する偏見がないようにも思いました」とも述べている。 ● 東大のタテ社会に入れば 男女は平等になれる 実際、東大を卒業した中根はそのまま東大という「タテ社会」のなかに入り、他の教員と「同等な取り扱い」を受けて教授まで昇進を続けることができた。タテ社会のメンバーになってしまえば男女は平等になれるのだと彼女は信じていたし、ことさらに女性としてのアイデンティティを押し出すことに意味を感じていなかった。 注5 中根千枝、現代新書編集部「女性初の東大教授が歩んできた道 インド山岳地帯から日本の農村まで 先輩後輩関係が重要なタテ社会の生き方」『現代ビジネス』2019年11月22日(https:// gendai.ismedia.jp/articles/-/68470)
果たして他の東大の女性教員が中根と同じように感じていたかどうかは、記録がほとんどないため確認できない。しかし当時のキャンパス環境で成功するには、中根のように女性というアイデンティティを捨象し、東大のタテ社会に入る以外の選択肢を想像するのは困難だったのではないだろうか。 中根が助教授、教授に昇格したのはまだ田辺貞之助(1963年退官)、中屋健一(1971年退官)、尾崎盛光(1977年退官)らが現役で活躍していた時代である(編集部注/いずれも女性学生の能力と意欲に批判的な東大教授の面々)。そういう環境において大学と研究界の序列を昇っていくには、他者として女性である立場を主張するより、他の男性教員と自分が等しくタテ社会の構成員であるという意識を抱き、そのルールに従う方が軋轢も少ないし、はるかに効率的でもある。 しかしそのタテ社会とは、いみじくも尾崎盛光が述べたように「建物、設備も、教科内容も、先生の心がまえも、ほとんどすべて男性専用の大学であった」戦前の系譜をそのまま受け継いだ男の社会であった。東大のタテ社会の「中核にある主要な制度」は男性の価値観に深く根差したものであった。
矢口祐人