「金沢五木寛之文庫」にはデビュー以降の全作品が並ぶ＝金沢市

　札幌市の渡辺淳一文学館、北九州市の松本清張記念館－。著名な小説家の名前を冠した記念館、業績を紹介する文学館は各地にある。だけれど、人気作家の五木寛之さん（92）＝福岡県八女市出身＝に関するものはどこにもない。唯一、金沢市の金沢文芸館内に「金沢五木寛之文庫」と名付けられたコーナーがあるが、関係者は「五木さんの個人文学館ではない」と言う。文学館でなければ何なのか？　訪れると、五木さんの“文学観”が詰まったユニークな空間だった。 【写真】金沢時代の五木寛之さん（1969年撮影） 　デビュー作「さらばモスクワ愚連隊」から最新の「五木寛之セレクション」まで、全作品が年代順に並ぶ本棚。文庫本の表紙がパッチワークのように飾られた壁。「青春の門　自立編」の特集スペースには直筆原稿が展示されていた。よくある文学館の風景だが竹森利浩・金沢文芸館副館長は「あくまでも文芸館の一部。五木さんを顕彰するものでも、五木さんに特化した作品世界を紹介する場でもありません」と強調する。 　金沢市が2005年に開設した文芸館は、地元関連の書籍が手に取れるなど文学好きの憩いの場になっている。「文庫」設置のきっかけは、開設前に五木さんに相談したところ、「市民に役立ててほしい」と書籍や愛用品を貸し出すことを申し出たからだという。 　金沢は五木さんの作家生活スタートの地である。渡欧後に夫人の故郷・金沢に落ち着き、「さらばモスクワ愚連隊」（1966年）が生まれた。直木賞を受けた「蒼ざめた馬を見よ」（同）を書いたのも金沢。「青春の門」の連載開始（69年）も金沢時代だ。「内灘夫人」「朱鷺の墓」など、石川・金沢を舞台にした作品も多い。地方文学賞の先駆け、泉鏡花文学賞（金沢市主催）は創設時から選考委員を務めている。 　“第二の故郷”に設置された「文庫」だが、五木さん自身は「文学を志す人に向けた素材の一つ」と考えているようだ。竹森副館長は「作品を介して、いろんなことを感じ自分の創作の糧にしてもらえたら、というのが五木さんの思いです。創作の大変さ、本の素晴らしさを学び金沢から若い才能が生まれてほしいと願っておられるのでしょう」。 　金沢には出身者の泉鏡花、室生犀星、徳田秋声を顕彰する文化施設があり、観光スポットとしても注目される。しかし文芸館を訪れる観光客は多くはない。小説や詩作の講座を受講し、文芸サークルの会合に集う市民が中心だ。「観光目的の方も来られますが、金沢の五木作品を紹介する地図もないし、詳しい説明ができる学芸員もいません。それでもみなさんは時間をかけて見て行かれます」と竹森副館長は言う。 　自分は前面に出ず、「作家は自分の作品の背後に、沈黙して立つべきだろう」（「さらばモスクワ愚連隊」後記）というスタンスを貫く五木さん。そんな思いがストレートに伝わる「文庫」は五木文学的空間だと感じた。そもそも「デラシネ（根無し草）」を自称し、自在に空間や時間を超える「旅する作家」の五木さんに、特定の場所に固定された文学館は似合わないだろう。　（塩田芳久）