ブラジル日系社会『百年の水流』再改定版 (29) 外山脩
水野龍(上)
こういう具合に、無数の失敗と悶着の製造元であった水野龍が、後に一部からブラジル日本移民の開祖と敬称されるようになるのだから奇妙である。 どういう人物だったのだろうか。もう少し詳しく知る必要がある。 水野は一八五九年、つまり江戸時代末期、土佐に生まれた。自然、この地から輩出した維新の志士たちに憧れて成長した。十六、七歳まで小学校で子供たちを教えていたが、絶えず、上京する竹馬の友、学友たちにドンドン追い抜かれていく焦慮にかられていたという。その後を略述すると。━━ やがて自分も上京、慶応義塾に一時籍を置き、この間、渡米を図るも果たせず。 同郷の先輩、後藤象次郎について官途をめざすが、後藤の死で中断。 やはり土佐出身の板垣退助の自由民権運動に加わり、大隈重信の暗殺を企てて失敗。 一八九八(明31)年、衆議員選挙に立候補、過激演説の廉で四十日間拘留さる。落選。 実業界に転ずるが、日露戦争中(前章で記したように)戦地用缶詰の生産で大失敗━━となる。 要するに若い頃から海外、官界、政界、実業界を志して悉く失敗、しかし、その度に再起したことになる。 この水野が初老の域に入って手を出したのが移民事業であった。青年時代に果たせなかった海外への夢を思い出したのであろう。そして、笠戸丸移民を実現させた。が、惨憺たる結末に終った。 以下は、それ以後の話となる。 水野は、ファゼンダに於ける移民たちの騒擾の後始末もいい加減に、一九〇八年の暮れ、孤影悄然、海路、帰国の途についた。翌年、東京着。 笠戸丸移民の惨状は、詳しく日本政府に伝わっており、国辱モノとして関係部門を激怒させていた。 水野が予定していた第二回移民送出の許可申請はハネつけられた。皇国殖民は、あっけなく倒産した。 名前とは反対に、ボロ会社だったのである。 このまま終れば、水野は確実に大詐欺師として、世の弾劾を受け続けたであろう。が、そうはならなかった。 笠戸丸以後も、彼は多くの難関にぶつかり続けるが、その度に生来の強靭な気骨で、起死回生の手を打ち、移民事業を継続、己の社会的評価も回復していく。 右に強靭な気骨と書いたが、むしろ「人並み外れた精気」と表現する方が適当かもしれない。当時としては完全に老齢の六十歳を過ぎてから、二十代の女性を後妻に迎え、子供も何人かつくっている。 水野は皇国殖民が潰れると、同郷の高知県の富豪、竹村与右衛門(後に貴族院議員)を、 「移民は国家的事業、国士のなすべき仕事」 と口説き落として、竹村殖民商館を設立させ、皇国殖民の権利(サンパウロ州政府から供与されていた船賃補助つき移民枠)を、ここに移した。 自身は専務になり、翌一九一〇(明43)年、政府の許可をなんとか取つけ、旅順丸で第二回移民を渡航させた。 この時は、前回の経験を生かそうと、移民の募集時の誇大な宣伝は控え、彼らを送り込むファゼンダの選択にも慎重を期し、数も増やした。 成果は……移民の数は九〇六人で、今回も目標の一、〇〇〇人に達せず、サントス到着もやはり六月に遅れた。 ファゼンダでの騒ぎも起きた。モジアナ線ジャタイのジャタイというファゼンダでは、全員退去となった。経営者が州政府の高官の縁戚という関係上、頼まれて移民を入れたのが、間違いのもとだった。 ここはカフェーの結実ぶりは相当なものであったが、山の頂から麓にかけて、急斜面に植わっており、一資料の記述を引用すると「磐石、至る処に凸凹、小石も磊々として」いた。元々、労務者泣かせで有名なファゼンダだった。 騒ぎは、ほかに二カ所のファゼンダで起きた。逃亡や追放も頻発、九カ月後の調査では総数二〇〇人以上を数えた。