「醜いのは犯罪」、そんな法律が50年前まで米国に本当にあった、今も残るその影響
目に見える障害者や病人が公の場に出るのを禁じた「醜陋(しゅうろう)法」の歴史
美人は人間関係がうまく行き、学校や職場で得をすることは、研究で示されている。では逆に、見た目が悪いと思われることが社会的ハードルになるだけでなく、犯罪になるとしたらどう思われるだろうか。 ギャラリー:リンチ殺人が横行した米国、暗黒の歴史(閲覧注意) 写真と図18点 19世紀半ばから1970年代に至るまで、米国には、「見た目がよくない」人々が公共の場に出ることを禁じるいわゆる「醜陋(しゅうろう)法」なるものが存在した。あまり知られていない法律だが、その歴史を紐解いてみると、米国社会が誰を「美しい人」とみなすのか、そしてその理想に届かない人々がどのような影響を受けたのかが見えてくる。
すぐに全米に広がった
都市が拡大し、公共の場が混雑するようになると、米国では社会秩序と都市環境の美観の維持を訴える声が高まった。サンフランシスコ市は1867年に、米国の都市として初めて、病人や障害者、またはどこか普通とは違った体をしているために「見苦しい、または醜い外見を持つ」者が「公衆の面前に姿を見せる」ことを犯罪とする条例を制定した。 この動きはすぐに全米に広がった。ネバダ州リノ、オレゴン州ポートランド、イリノイ州シカゴ、ルイジアナ州ニューオーリンズといった自治体や、ペンシルベニアなどの州政府が、同様の条例や州法を制定した。 これは、公共の場における行動を規制し、社会規範を強化するという、より広範な取り組みの一環として、しばしば人種統合(共存)、移民、路上生活者の規制とともに取り入れられることが多かったと、『The Ugly Laws: Disability in Public(醜陋法:公共の場における身体障害)』の著者であるスーザン・M・シュベイク氏は言う。 健康な人が身体障害者を目にすると文字通り病気になるという誤った考えに基づいて、公衆衛生にかかわる措置であると主張し、条例を正当化する人々もいた。または、身体障害者の物乞いを認めると、障害を装って人から金をだまし取ろうとする者が出てくるという主張もあった。 しかし、何よりも強い動機付けは、嫌悪感だったようだ。 ジャーナリストのジュニウス・ヘンリ・ブラウンは1869年に、ニューヨーク市での生活を綴った回想録『The Great Metropolis(大都会)』のなかで、次のように書いている。 「夕食に出かける途中、愛する誰かに会いに行こうとしているとき、または苦労して考えた新しい詩の最後の一節を頭のなかで完成させようとしているときに、何か醜い光景に遭遇することは、好ましいことではない」 こうした条例のせいで、収入源が断たれた人々もいた。障害を持ちながら、路上で物を売ったり、物乞いをしたり、芸を披露したりする人々は、都市空間を楽しむ市民の邪魔になる存在として扱われ、仕事ができなくなった。 1910年代半ばには、オハイオ州クリーブランドで、手足に先天異常がある35歳の男性が、条例のために新聞売りの仕事を失い、生活苦に陥った。しかし、近所のドラッグストアの店主の計らいで、その店の前で新聞を売ることができたという。店先は公共の土地ではなく個人の所有地だったため、条例違反にはあたらなかった。 「醜陋法は、ヘレン・ケラーや、車椅子のフランクリン・D・ルーズベルト大統領といった人々を対象にしていたのではありません。目に見える障害を持った人々が公共の場で物乞いをすることを防いだり、思いとどまらせたりするためでした」と、シュベイク氏は言う。 条例の支持者たちは、身体障害者を路上から施設へ移せば、よりよい支援が受けられると考えていた。しかしこれが逆に、障害者個人の自己決定権を奪い、孤立させ、ますます社会から締め出す結果となった。 全ての人が醜陋法を支持していたわけではない。特に身体障害者の収入を守るために、市長が路上販売許可証を発行したり、障害者を逮捕しようとした警察官を市民が止めに入ったりして、取り締まりが困難になったこともあった。 1936年には、シカゴで片足がない黒人男性を逮捕しようとして、その健常な足を蹴り上げた警察官を、4人の白人が襲うという事件があった。周囲にいた大勢の人々も、4人を支持した。