永山則夫、連合赤軍など担当の大谷恭子弁護士死去
さまざまな刑事事件の弁護人を務めた大谷恭子弁護士が、10月11日に亡くなった。74歳だった。 1950年、東京・十条で米店を営む両親の下に生まれた。早稲田大学法学部に入学したのは学生運動が激しく展開されていた真っただなかの69年。付き合い始めていた男性が逮捕され、救援活動に奔走するうちに、時代に抗う者たちが弾圧される刑事事件の弁護人になろうと心に決めた。 弁護士登録をした78年、成田空港建設に反対する若者たちが管制塔を占拠した事件で大量の逮捕者が出て、接見と裁判に追われた。自身の目論見通り刑事事件にかかわって、弾圧された者の代弁者となる弁護士人生が始まった。 その「私の弁護士生活をガラッと変えた」と自ら語るのは、翌年担当することになった、脳性麻痺の小学生・金井康治にかかわる一件だった。 養護学校に通っていた康治は、弟や近隣の友人と同じ普通学校に通いたいと訴えた。教育委員会がそれを認めなかったために、支援者とともに自主登校し、固く閉ざされた校門前に机を並べて勉強した。康治がトイレに行きたいと言うので、支援者がバギーごと門を乗り越えたところ、建造物侵入で逮捕された。 「障害児に学籍を与えないこと自体が違憲だ」との主張による憲法裁判として最高裁まで争ったが、支援者への有罪判決は変わらず、彼らは公務員職を失った。 敗北感に打ちひしがれた大谷は、この問題の解決のためには制度改革しかないと考え、障害者権利条約批准に備えた国内法の整備作業に参加した。障害の有無や国籍、年齢、性別などに関係なく、違いを認め合い、共生していくインクルーシブ(包摂的な)社会を実現するために理論的かつ実践的な努力をすること――生涯を貫く大谷の、重要な柱となった。 アイヌ肖像権裁判では、先住民族の諸権利を確立するための理論構成に挑んだ。永山則夫連続射殺事件裁判では、判決が死刑→無期懲役→死刑と二転三転し、人の命を弄ぶような裁判の在り方への疑問から、確信的な死刑廃止論者になった。 「弁護士は事件に出合って、事件に育てられる」とは大谷の口癖だったが、それはとりわけ、永山とのかかわりの中で得られたものだった。