現代アート「1980年代」「1990年代」圧倒的な違い、現代アートの文脈を見出すことが難しくなった
もっとも、そういう中でも画期となったものはありました。「エッセンシャル・ペインティング」展(2006年、国立国際美術館)にノミネートされた画家たちは、現代アートのテーゼだった「アヴァンギャルドであること」に大した興味を抱こうとはせず、もっぱらプライベートな関心で作品を制作しました。 マルレーネ・デュマス、リュック・タイマンス、アレックス・カッツ、ピーター・ドイグ、ヴィルヘルム・サスナル、セシリー・ブラウンといった面々です。展覧会の趣旨説明で彼らは「前衛に対するこだわりからは解放されて」いると紹介されました。それはまさに現代アートのニュータイプ宣言でした。
マルレーネ・デュマスの絵は技術的なものを追求したようには見えません。いかにもフリーハンドという輪郭の人物が、緊張とは無縁の佇まいで描かれています。 妊娠した裸の女性が薄い上着だけを肩に掛けてこちらを向いている姿など、プライベート感と生命の感触が強く満ちたもので、フォーマルな硬さを感じさせる要素はまったくありません。色使いは肌色や水色、アイボリーといったフェミニンで穏やかな色彩が多いです。 ■アヴァンギャルドな精神を放擲
ピーター・ドイグは身の回りの風景を題材に選んでいます。バスケットボールのコートが描かれた1枚は、実景はおそらくどうということのない場所と思われます。そこを特別な場所として描くのではなく、いくぶん抽象化しつつも、そのままの様子で描いています。つまり、彼は普通の場所を普通に描くのです。やはりそこにオフィシャルなテーゼは何も見出せません。 「エッセンシャル・ペインティング」展の画家たちは、肩ひじ張って物申すといったことからは距離を置いています。そのスタンスはそれまでの現代アートのロジックからは逸脱したものでした。おぞましいアートのロバート・ゴーバーやマイク・ケリーらでさえ、表現は相当奇抜ではあったものの、既存の価値観や常識の問い直しというアヴァンギャルド精神は有していました。
ところが、エッセンシャル・ペインティングの連中は、アヴァンギャルド精神を放擲してしまったのです。彼らがやったことは、体制に対する反逆でも、社会の矛盾に対する告発でもありませんでした。そんなふうに構えることなく、1人の素の人間として等身大の関心を、肩を怒らせることなく表現するのでした。 いまから振り返れば、これは現代アートが大きく変質したことを示す1つの画期でした。現代アートにはオーソリティに対するアヴァンギャルドというほかにも存在可能性があることを広く知らしめるものとなりました。
藤田 令伊 :鑑賞ファシリテーター