99歳までボクシング界を支えた帝拳・長野ハルさん死去 64歳下の記者にも刺さる厳しさ、愛、畏敬の念
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日本ボクシング界の名門・帝拳ジムの長野ハル・マネジャーが1日午後8時40分、老衰のため死去した。5日、本田明彦会長がホームページで発表。99歳だった。1948年に帝拳株式会社に入社し、日本ボクシングコミッション(JBC)が創設された1952年にマネジャーライセンスを取得。多くの世界王者を輩出したジムだけでなく、75年以上にわたって業界を陰で支えてきた。 【画像】「めっちゃいい子」背後で涙ぐみ話題に 村田諒太の試合でリングガールを務めた2人の写真 昨夏頃に足を骨折するまでは試合や記者会見にも足を運び、マネージャー業に勤しんでいたボクシング界の母親的存在。選手、トレーナーはもちろん、記者にも厳しい姿勢を崩さなかった奥には大きな愛があった。 ◇ ◇ ◇ 一度見た顔は忘れない。90歳を超えても、それくらいしっかりした方だった。 記者がボクシング担当になったのは2018年1月。長野さんはすでに92歳だった。最初は挨拶をしても視線すら合わせてもらえず、微動だにしない時も。昭和の空気はゆとり世代の記者には重すぎた。新顔に厳しいのは、選手を守るためだろう。信頼できる人間なのか、常に試されていた。 他の競技と比べ、選手と記者の距離が近いボクシング。だが、長野さんの許可なしに取材するのはもってのほか。選手のほうから話しかけられても、「練習中の選手に話しかけないでください」とこちらが注意された。 たとえ取材のための調べものであっても、ジム内で容易にスマホなんていじれない。見られていないと思って開いたつもりが、大鏡越しにじっと視線を向けられていた。全てを見透かされている。心拍数が跳ね上がった。 毎月、無言で手渡されたのがボクシング専門誌。勉強しなさい、ということだったのだろう。神楽坂のビル5階にあるジムへのエレベーターでは、身なりと呼吸を整えるのが日常。「この記事はどうしてこの書き方を?」。甘さは逐一指摘された。記者が生まれた時はすでに64歳で還暦を超えており、文字通り赤子の手をひねるよう。先輩記者には「長野さんが夢に出てからが一人前」と教えられた。 数年が経ったある日の挨拶。わずかな会釈が返ってきた。少しだけ認めてもらえた気がした。「あの子はこの間、こんなことがあったのよ」。他社の記者が知らない選手の情報を、その一端だけ教えてくれる。チャンスをもらい、取材して回った。