【京大野球部】“秀才軍団”率いる元甲子園のスター・近田怜王さん 『プロ向きじゃない』と言われソフトバンク戦力外...社会人野球を経て指導者に「京大は一緒に作り上げていく野球ができる」
ソフトバンクで始まったプロ野球選手としての生活。自信を持って入った世界でしたが、甘いものではありませんでした。 (近田怜王監督)「キャッチボールのボールの質から、プロの選手は違うなと感じたのが一番で、これじゃ自分はなかなかしんどいぞと、すぐに感じました」 ただでさえプロの高い壁を痛感する中、2年目にはけがにも悩まされました。 (近田怜王監督)「自分の甘さといいますか、春のオープン戦で1軍で投げさせてもらったんですけど、その次の日には肩を痛めて。体のケアの部分であったり、その中でも体作りをしないといけない、その両立がちゃんとできていなかった。プロとしての認識がなかったところで、肩をけがしたのが一番かなと」 その後は自分らしい投球が思うようにできないなか、野手にも挑戦するなどもがき続けましたが、1軍には一度も上がれず。そして、4年目が終了したときに、戦力外通告を受けます。 (近田怜王監督)「蹴落としてでも上がっていくという部分がなかったので、『プロ向きじゃない』と言われていましたね」
社会人野球を経て京大野球部へ「そこまでしなきゃいけないか…」指導の苦労とは?
しかし、戦力外通告を受けた近田さんに転機が訪れます。 (近田怜王監督)「将来、指導者を目指すのであれば、社会人の野球を経験した方が、指導に生きるよというお話をもらって」 いずれは指導者になりたいと考えていた近田さんに声をかけたのはJR西日本。そこから3年間現役生活を続け、引退。その後は野球から離れ、駅での勤務や車掌などの仕事に専念。引退から1年ほどたった頃、思わぬところから指導者への道が舞い込みます。 (近田怜王監督)「当時のJRの上司に京大に誘われて、指導に行ったのがきっかけになりました」 京大野球部OBの上司の誘いで、コーチ・助監督を5年ほど経験し、2021年、監督に就任しました。 (近田怜王監督)「当時は『野球部あるんだ』ぐらいにしか思っていなかったと思います。でも練習を見たら、ゲッツーも普通にやってますし、バッティングも打てるので」 しかし、秀才軍団・京都大学の学生たちへの指導は、思いもよらない苦労があったようです。 (近田怜王監督)「『もっと前でリリースしたらいい』という話をしたら、『そのためにはどの筋肉を使うんですか?』と言われて…。筋肉の名前も全然分かっていなかったので、解剖図を見て『この筋肉だな』とか調べて、その繰り返しでしたね。『この筋肉はこう動いて』とか言った方が分かってくれたので、そこまでしなきゃいけないかと思いましたけど」 (4回生・法学部 坂野碧斗選手)「自分たちは頭を使ってのプレーにこだわってしまいがちなんですが、この練習の質がいいと思うためには、その練習の量をこなさないと分からない。頭の中で勝たなきゃと思っていた部分を近田さんがほぐしてくれた」 (4回生・工学部 西村洪惇主将)「グラウンドをきれいにとか、ゴミを拾おうとか、野球以外でもしっかりしようというところが大きく変わった。身の回りをしっかりしようとされている方なので、高校でも成功してプロでもやれたのかなと思っています」