【完全版】曽我ひとみさん証言 横田めぐみさんと交わした会話と安否不明の母への想い
■安否不明の母・ミヨシさんとセーターの思い出
1978年、ひとみさんと近所の商店に買い物に出かけ、一緒に3人の男に襲われた母親のミヨシさん。それ以来、消息が途絶えているのです。 オートバイによる交通事故で怪我をした父・茂さんに代わって家計を支えた母・ミヨシさん。 朝から農作業をして、昼は工場で油まみれになって働き、夜中まで内職をする― そんな働き者の母だったといいます。 拉致被害者 曽我ひとみさん(65) 「たぶん小学校の5、6年生くらいだったかなといま記憶しているんですけど、友達がすごく学校で新しいセーターを着てきて、羨ましいなってすごく思って。お母さんが隠してあったお金を勝手に持ち出しまして」 ひとみさんはこの時買ったセーターを、今でも大切に保管しています。 拉致被害者 曽我ひとみさん(65) 「その時ばかりは母親がなぜか怒らなくて。『ひとみが1人で買うてきたんだな』って、『自分が買ってあげられないから、かんねんな』と言うんですけど、ごめんなさいって、母親の方が謝ってきて」 「母親も泣いているし、私もその母親の顔を見て私も一緒に泣いて」 去年、ひとみさんが高校3年生の時に書いた作文が見つかりました。 タイトルは「母」―。 拉致被害者 曽我ひとみさん(65) 「働き者の母、涙もろい母、ドジな母。でも私はこんな母が誰よりも大好きです」 Q.すごいお母さん子というかお母さん大好き? 拉致被害者 曽我ひとみさん(65) 「大好きです」 一緒に拉致されたはずの母・ミヨシさんは、いったい、どこに行ってしまったのか? 袋づめにされた状態で船に乗せられたとき、ひとみさんは“何者かの話し声”を聞いています。 拉致被害者 曽我ひとみさん(65) 「話をしている言葉ひとつひとつは聞き取れなかったんですけど、たどたどしい日本語を女の人が話していまして、それを誰に話をしているかっていうのは、私自身も分からなかったんですけど」 Q.ひとみさんを最初から狙って拉致したのか? 拉致被害者 曽我ひとみさん(65) 「難しいところですね、私自身も最初から計画性があって私を狙っていたのか、それともたまたまいたから拉致をしたのか、その辺のところって私自身もはっきりわからないところで」 北朝鮮に着いた直後、拉致の実行犯とみられる女工作員キム・ミョンスク容疑者はひとみさんにこう語っています。 (キム・ミョンスク容疑者) 「お母さんは佐渡に帰した。元気で暮らしているから心配しなくていい」 北朝鮮で辛いときに支えてくれたのは、母親に買ってもらった「腕時計」でした。 拉致被害者 曽我ひとみさん(65) 「ずっと時計が母代わりというか、時計にいろんなことを愚痴を言ったり励ましてもらったり」 「時計に向かって怒ったり泣いたりしてました」 日本に帰ればお母さんに会える―。 そう信じていましたが、帰国直前、初めて日本にいないことを知らされます。 拉致被害者 曽我ひとみさん(65) 「(日本政府調査団に)面会した時にはっきりと言われました。日本にはお父さんと妹さんしかいませんと。いや、すごくショックだったし何が何だか…」 【5人の拉致被害者帰国 2002年10月】 24年ぶりに帰国した日本に、一番会いたかった母・ミヨシさんの姿はありませんでした。 曽我ひとみさん 「とても会いたかったです」 北朝鮮は、ミヨシさんは「未入境」だとして、拉致そのものを認めていません。 拉致被害者 曽我ひとみさん(65) 「一緒に、同じときに、同じ時間に、同じ場所で拉致をされて、北に入ってきていないっていうことはいったいどういうことなんだろうって、反対に私が聞きたいような気持ですけど今」 「全然いないのに『(日本に)いる』ということでしたし、『朝鮮語の勉強を一生懸命すれば時期を見て日本に帰してやる』とか、『結婚して子どもが生まれれば里帰りさせてやる』とか」