【証言・北方領土】国後島・元島民 池田英造さん(2)
突如家の前に現れたソ連の軍艦 恐怖、悲しみ、憎しみが心に残った
終戦が8月の15日でしょ。ロシアがうちの前に軍艦で来たのが9月の2日だからね。ほんとにうちの前に、こういう大きな船が入って、停泊して、それから小船、ボートで5人ほど兵隊が来たのさ。その兵隊見たこともない人種なわけでしょ。特に海軍っていうのは、何ていうのか、荒々しいような人種みたい感じしたのね。向こうだって、命がけでね、やられるかもしんないっていう気持ちで来たから、そう見えたんだろうけども。して、そのときは、とりあえずいったん船に帰って、古釜布沼っていうところに、常時、駐屯するようになったよね。それから、巡回して歩くたびに、来るとね、金品、金属、そういうものの要求始まった。 ――ソ連兵が要求した。 それと、最後、娘いないかということが出たわけでしょ。最初、来たときは、ベルトにしても、貴金属にしたってやるわけでしょ。次の日来たら、やるものないわけでしょ。やるものがないっていうことになると、銃を向けてね、撃つぞという脅しをかけんね。脅しかけられたって、ないわけだから。どうしようかって、大人は結構怯えてたみたい。 終戦が8月の15日、10日くらいしてから、叔父さんが隣に別居していたんですけど、家族4人残して、兵隊に行ってたんだよね。して、うちの家族総勢で14人だった。その14人が夕飯どき、テーブル囲んでるときに、「いや、日本は戦争に負けたんで、アメリカが来てくれればいいな」と。何を言おうとしてんのか全然わかんないんですよね、まだ12歳ですからね、そんな環境にも慣れてないし。 そしたら、「もしソ連が来たら、男の働きではシベリアへ連れて行かれるだろう。女性は軍隊に連れて行かれるだろう」。全くわかんない。残るのは「年寄りと子供だけだ。とすれば、俺らはシベリア行って死んでもいい。だけど、年寄りと子供のことを思うとね、死にきれない。もしソ連が来たら」。漁師ですから、小船たくさんありましたからね、「一艘の船にみんな乗って、沖へ出よう」って言った。根室へ行くのかなと思ったね。そしたら、「どうせバラバラに、散り散りバラバラんなるのであれば、1艘の船にみんな乗って沖へ行って、船を転覆させて一緒に死のう」っていうことだった。 そのときにね、死ぬなんてね、ちびったりとも感じていない子供の心にね、すごく、こう、恐怖っていうのか、悲しさっていうのか、そういうものが入り混じったものがドンと、こうしみたんだよね、心の中に。それと同時に、もしソ連が来なければ、そういうことにならないんだ。ソ連のためにという、ソ連含めた、そういう憎しみみたいものがね、黒い一つの固まりみたいなって、俺の心に残ったのさ。それからというものは、やっぱり恐ろしさに怯えて、いや、1日も早く根室へ出たい。見たこともない根室ですけどね、島から根室へ出たいっていう思いがあったね。