【証言・北方領土】国後島・元島民 池田英造さん(2)
夜、島を脱走する人のため、迎えの船が根室から来ていた
父も同じこと考えていたみたい。夜になると、父がうちにいないんだよね。何でいないのかわかんなかった。そしたら、やっぱり根室ヘ出る、機会あったら出るという思いがあったもんだから、大事なものだけは、わずかでも持ってかなきゃっていうことで荷造りしてたみたい。ソ連の兵隊が来ても見つからないように、荷造りしては隠してたの。 そして、毎日、浜周りやってたの、夜。当時、根室からね、島から脱走したい人がたくさんいる、いうことを聞いて、それを迎えに行く船がたくさん出たの。だけど、連絡のとるすべがなかった。無線もないし、電話もないし。それが、たまたまどっから伝わったのか、夜中に船が来たら、迎えに来たら、沖で、瞬間的な光が一つ光るよ。それを見つけたら、陸(おか)から2回の光を送ること。それが合図。それで、来たよ。2回の光でわかったよ、今行くよっていうことで、その光目がけて行く。そして、きょうは何人くらい乗れるのって、船の規模まず確認するね。そや、きょう3人とか5人とかなるわけでしょ。そうすると、すぐ父なんか丘へ来て、「はい、きょうはうちの家族何人行けよ」ということで、送ったの。 普段ね、それまでは隣近所、親戚、親子のような付き合いなのさ、何のわだかまりもない。それがね、そのときは、隣に物音聞こえないように、「静かに静かに、子供泣かせるなよ」。そして、自分の家族を送り出す。っていうのは、例えば10人いても、きょうは3人だよっていえば、3人よか出せないわけでしょ。あしたは5人だよっていうことで出せないわけでしょ。これ隣に聞こえたり、隣に教えたりしたらね、自分の家族だけ出せねえわけでしょ。隣の家族ほってさ、おまえだけ乗せられねえってわけにいかねえわけでしょ。だから、隣に聞こえないように、聞こえないようにってことで、こっそり来た。
1歳3カ月の弟を背負った母と海しぶき浴びながら小船で脱出
うちは、最初は祖父母と、兄貴と妹と4人、来たのね。2回目は、9月の27日、俺ら、おふくろと兄弟5人と、それから、おじさんとこの親子4人と、送り出されて、1艘の船に乗ってきたのね。何で、父一緒に行かないのかなと思った。何で、何でと思いながら、その船が出て、途中まで来たら、こう結構、風吹いてきてね、船にしぶきがかかるようになった。船の中に入れないのさ、規模が小さいもんだから。甲板にいるわけでしょう。うちのおふくろは船に弱いもんだからね、1歳3カ月の弟を背中におぶったままね、動けないで、その波しぶきをかぶるのさ。そうすると、おふくろは、大人だから耐えるにしても、背中の弟がね、根室に着くまでに、これが死ぬんでねえかって、すごい心配したんだね。俺にすれば、何か1枚羽織ってやりたいけど、羽織るものがなかった。だから、何とかして、弟が助かってほしい、助かってほしいっていう願いの中で、船長が「根室見えたぞ」ったときにね、ほっとしたね。弟が助かるってこと。ほっと。 根室に着いて、祖父母なんか先に来てたもんですから、祖母の友人のうちに1月くらいお世話になって、父待ってたの。だけど、なかなか来ない。たまたま、おばさんが霧多布でだんながニッスイ捕鯨会社に勤務してたんで、「霧多布に小さいけども、一軒家でね、借りるにいいうちあるから来ないかい」っていうんで行った。して、父待ってたのね。来たのがね、11月の中ころだったと思うんですよね。 ――結構遅かったですね。 そう。後で知ったことだけどね、さっき話した隣近所の人に知らせないで、自分の家族だけ出したわけでしょ。乗ってこれなかった、気持ちあった。だから、地域の者が80%から90%の者が根室へ出てから、俺らが行くんだということで残ったみたい。