「心のバランスを崩した」10代で“脱ぐ女優”のレッテル…衝撃的な役柄でデビューした高橋惠子の今
新進作家と飛騨で暮らしたり舞台をドタキャンして逃避行
「夜、家に帰るとき空を見上げて北斗七星を見つけると、北海道で見たのと同じ。変わってないよねと確認していました」 自分は変わらないでいたいと思っていたのに、忙しさの中で周囲に流されていたと気づいた。そして裏では大人たちやお金が動き、人間不信に陥っていった。そんな20歳のとき、新進作家の河村季里さんと、雑誌のインタビューで5年ぶりに再会。 「河村さんに、15歳のときはとってもいい目をしていたのに、変わったねと言われ、ショックでした。確かに自分でも、純粋だったころとは違うとわかるんです。この人といれば、この人に導いてもらえば、純粋だったころの自分を取り戻せるのではないかと思ってしまったんです」 彼と一緒にインドに1か月行き、その後、飛騨で2年間過ごした。 「16軒しかない集落の、囲炉裏のある古民家で、家の前にはイチイの木がありました。雪深いところで。私は耐えられたんです、生まれが北海道ですから」 ここで野菜を作り、魚を釣って生活した。肉などの買い出しのために、運転免許を取った。女優業は休業、仕事は、毎月の着物での撮影だけ。電話もなかったので、隣の人が取り次いでくれていた。当時の日本でも珍しい、牧歌的な暮らしだった。 1979年、女優復帰。パルコ劇場の『ドラキュラ』に出演する。しかし、10日ほど舞台に立ったが、残りはすっぽかして失踪。河村さんと日本を脱出していた。“愛の逃避行”と、大変なスキャンダルとなった。 「タイ、トルコ、マレーシアなど転々としながら半年ほどいたでしょうか。死ぬしかないと思って旅をしていたのですが、ある日本人に、この日に帰国しないと命が危ないと占われると、やっぱり命が惜しい。で、その日に帰ったら、空港には多くの報道陣が待ち構えていました。その人に密告されたのだと思うのですが、おかげで、帰国する踏ん切りがつき、皆さんの前で“帰ってきました”と言うことができ、また仕事をすることができたんです」 そのときの惠子さんの姿は実にきちんとしていた、と語り継がれるほどだ。1年間の謹慎を経て、仕事に復帰した。 「それで償えたとは思っていません。多くの人にとても迷惑をかけたし、騒がせてしまいましたから。だから、お仕事の声をかけてもらえるだけでありがたいのです」