「心のバランスを崩した」10代で“脱ぐ女優”のレッテル…衝撃的な役柄でデビューした高橋惠子の今
15歳で早熟な少女を演じ、奔放な女のレッテルを貼られる
北海道の原野は、惠子さんの原点だ。1955年、牛や馬を育てる酪農家の両親のもと、標茶町に生まれ、広大な自然の中を片道1時間かけて学校に通った。10歳離れた兄がいたが、13歳で他界。牧場の後継ぎがいないこともあり、お父さんはサラリーマンに転職。定年を迎えると、娘を東京で育てたいと、家族3人で上京した。惠子さんは小学校6年生だった。 「中学2年のときです。近所の写真屋さんに、家族で撮った写真の現像をしてもらいに行ったら、メガネの奥からジーッと見てくるおじさんがいたんです。写真屋さんのお友達で、大映のカメラマンだったんです」 そのカメラマンから「お宅の娘さんを女優にしませんか」と電話が来た。喜んだのはお父さん。俳優志望だったが断念した過去があり、娘に夢を叶えてほしいと願ったそうだ。惠子さんは、中学を卒業すると大映に入り、3か月間みっちり演技や日舞、体操、歌などの特訓を受けた。 「親も先生も高校に行ったほうがいいと言ったのですが、私は、3年間は集中し、ダメだったら、普通に戻ると決めていました。だから高校は行かず、通信教育を選びました」 15歳で、主役が舞い込む。 「“関根くん、これをやってもらいます”と台本を渡されたのが、『高校生ブルース』。家に帰って台本を読んで、妊娠する高校生役という衝撃的な内容と、上半身裸にならなきゃいけない場面もあって、眠れませんでした。子役ではないんだから、自分で決めると言い張っていたので、親にも相談せず、“はい”と言った以上はやるしかないと覚悟を決めました」 清楚さとセクシーさを併せ持つ美少女は、1970年、本名の“関根恵子”で、鮮烈デビューを果たす。裸のシーンもある娘の映画を見たお父さんに「よく頑張ったな」と言ってもらえたのが、「ありがたかった」と振り返る。 同年の『おさな妻』では、子連れの男性と結婚する17歳という役。 「子役の女の子に、1か月間、ママ、ママ、と呼ばれていたら、15歳なのに、年をとった気がして、ママが板につきました」 この演技で、ゴールデンアロー賞を受賞。1年半で7本の映画に出演し、休みは年に3日間、正月もなかった。毎日が必死で、家に帰り着くと玄関で寝てしまうほど疲れていた。 「7本の映画のうち、セクシーな場面がないものはなかったです」 おかげで“脱ぐ女優”“奔放な女”というレッテルを貼られる。 「裸になるシーンを“恥ずかしくないですか”と聞かれるんですが、“恥ずかしい”と言っちゃうと、もう立っていられない気がして。本当は恥ずかしさの極致だったのに、“いいえ”と、強がりを言っていました」 大映は倒産し、惠子さんは東宝に移籍。1972年、ドラマ『新・だいこんの花』で、竹脇無我さんの妻役を17歳で演じる。同年から『太陽にほえろ!』にレギュラー出演。石原裕次郎さん、萩原健一さん、松田優作さん……そうそうたる俳優たちと共演しながら、女刑事・シンコ役で人気女優となる。 「10代だったのに、ずいぶん大人びた役ばかりでしたね」 自分とはかけ離れたイメージがひとり歩きし、心のバランスを失って悩むことが多くなる。