統合失調症の姉を南京錠で監禁した両親。“家族という存在”を20年追い続けた監督の「真意」
過去作との「反応の差に複雑な思いも」
――初めて本作を一般公開したのは「山形国際ドキュメンタリー映画祭」だと思いますが、上映に際しての心境や、上映後の反響を教えてください。 藤野:実はその前にも山形国際ドキュメンタリー映画祭には2回ほどアイヌの先住権民に関する作品を応募していたのですが、いずれも落選していました。今回もコンペ部門には落ちたのですが、コンペ以外の形で上映枠(日本プログラム)があるという連絡があり、「山形で上映してもらえるならどんな形でも構わない」という気持ちで受け入れました。 ただ、ドキュメンタリーというジャンル自体、日本ではやはり涙を誘ったりするようなヒューマニズムを重視したものが受け入れられやすい傾向があります。一方、本作は特に統合失調症に関する描写があるので、果たして観客に受け入れられるのかと心配していました。上映前に「普段放送されないような映像が流れます」と観客にアナウンスしたほうがよいかと考えたのですが、かえって余計な先入観を与えてしまうと考え、最終的には特別な注釈は付けずにそのまま上映しました。 最初は来場者が少ないのではないかと心配し、自分でビラを作って配布もしていたのですが、上映日には比較的多くの人が来てくれて正直ホッとしました。質疑応答の際も好意的に受け止めてくれているのを感じました。特に、自分の家族や知り合いに似た状況の人がいる方々は非常に強い印象を持ってもらえたようで、質疑応答後に話をしてくれる方も多くいました。 ただ、私の中ではアイヌ先住民に関するドキュメンタリーと同じく、どちらも人権の問題を扱っているつもりだったので、反応の差に複雑な思いもあります。とはいえ、今回は多くの人が自分のことのように感じてくれたことが驚きであり、嬉しい気持ちもありました。
ナレーションを自分で読んだ理由
――本作のナレーションは監督自身が行っています。プロの方ではなく、なぜ自分でナレーションを読んだのでしょうか? 藤野:まず基本的に、これまで作ってきた作品にはナレーションが入っていませんし、音楽も使っていません。悲しい場面で音楽をつけたり、ナレーションで観客を誘導したりするのは、ドキュメンタリーとしてどうなのかなと感じているんです。本当はテロップもすべて省きたいのですが、映像だけでは説明しきれない部分もあるため、必要最低限のテロップを入れる形にしました。 ナレーションは、あらかじめ書いたものを読むとどうしても嘘っぽくなってしまうんです。そこで共同制作者でプロデューサーを務めている淺野由美子さんに私をインタビューしてもらう形式を採用しました。その中で、思い出しながら話した部分もありますし、「言葉が生まれてくる瞬間」や「言葉の強さ」、さらには話している感情の深さを少しでも感じてもらえたらという思いです。