「ソガ・ヒトミ」その存在に驚愕した日本政府 曽我さんは自責の念を抱えて帰国した 「若い人にこそ知ってもらいたい拉致問題」(後編)
2002年10月15日。羽田空港に止まった飛行機のタラップから、男女5人が降りてきた。日本から北朝鮮に拉致された被害者の帰国だ。地村保志さん・富貴恵さん夫妻と、蓮池薫さん・祐木子さん夫妻は、やや緊張した様子ながらも笑顔を浮かべていたが、その後に1人下りてきた曽我ひとみさんの表情は暗い。念願かなってやっと帰国できたのに、なぜ笑えなかったのか。理由は後になって明かされた。最愛の母ミヨシさんが日本にいないこと、それに24年間も北朝鮮で過ごした中で母の「記憶」の一つを忘れた自分を責めていたためだ。帰国から20年超。故郷の新潟県佐渡市で1人で暮らす曽我さんは、今も母との再会と、高齢化していく拉致被害者家族のために闘い続けている。(共同通信=湯山由佳) ▽「日本は私1人など助けてくれない」 19歳だった1978年8月12日、新潟県佐渡市(当時真野町)で母と道を歩いていたところ、男3人にいきなり袋をかぶせられ、担いで運ばれた。乗せられたのは船。港に着くと日本語で「北朝鮮だ」と言われた。動転したが、一緒にさらわれたはずの母がいないのが、何より心配だった。
それからの24年は絶望の中で生きた。北朝鮮の当局者からは「朝鮮語を勉強して上達したら日本に返してやる」「結婚して家庭を持てば里帰りさせてやる」「子どもが生まれたら親に会うために返してやる」と騙され続けたためだ。「日本という国は私一人など助けてくれないんだ」と思っていた。「唯一信用できたのは家族だけでした」と振り返る。 2002年、北朝鮮で日本との首脳会談が行われることは事前に知らされていたが、自らの処遇や、拉致問題が好転するとは信じることができなかった。 しかしその後、事態は急転する。2012年に公表した手記で、曽我さんは当時の状況をこう記した。 「やっぱり最初に思い出すのは、帰国できた最大の要因となった日本の調査団との面会だろう。(2002年)9月17日、日本の調査団がやってきた。私は、党の幹部と指導員と同伴で、面会会場へ行った。24年間、待ちに待った瞬間が本当にやってきた。夢に見たことが現実となったのだ。この時の嬉しさをどう表現すればいいのか分からないほど舞い上がっていた」