倉田保昭「ブルース・リーとの出会いと別れ、帰国後は『Gメン’75』に草野刑事役に。旧友ジャッキー・チェンとの再会でふたたび香港へ」
◆日本に帰国し、刑事ドラマ『Gメン’75』に出演 1975年からは、ドラマ『Gメン’75』に草野刑事役で出演。日本のお茶の間での認知度が一気に高まりました。ドラマは香港でも放送されていて、高い視聴率で話題になっていたようです。 この頃は家庭にいる時間より共演者やスタッフと一緒にいる時間のほうが長く、お正月も何も関係なくひたすら撮影していたことを覚えています。主演の丹波哲郎さん以外は自分で車を運転して移動するのですが、毎日のことなので、積み重なっていくと結構な負担になるんですね。 練馬での撮影が終わったら次は品川へ移動して撮影という感じで、来る日も来る日もあちこち行ったり来たり。あまりのせわしなさに今自分がどこにいるのか、季節は何なのか、考える余裕もなくなるほどでした。 後半になって香港編ができるまでアクションシーンもほとんどなく、「俺は何のためにここにいるんだろう?」「この先どうなるんだろう?」と疑問を感じるようにもなって。最終的に自分から、番組に降板の申し入れをしたのです。 ところが当時は、若造の俳優が自ら降板するなんて許されない時代です。生意気だと思われたのか、3年ほど仕事がない時期を過ごしました。今のように俳優が独立して自分のプロモーションを持てる状況でもなく、やることがないので、毎日日光浴ばかりして時間をつぶしていました。
◆旧友ジャッキー・チェンとサモ・ハン・キンポーとの再会 そんな時に声をかけてくれたのが、旧友のジャッキー・チェンとサモ・ハン・キンポーです。日本ロケのために来日していた彼らが、「お茶でも飲まない?」と連絡をくれたのです。 2人に「倉田さん、いま何やってるの?」と訊かれたので「干されて干物になってるよ」と答えたら、「もったいない! 俺たちとやろうよ!」と言われて。すぐにサモ・ハン・キンポーが監督を務める作品3本と契約を交わし、再び香港映画に出演することになりました。 僕は本当に人の縁に恵まれていると言いますか、たぶん向こうでは言葉がわからなくてもニコニコして、いつも笑顔でいたのが良かったのでしょうね(笑)。ファンにも知り合いのように接していましたが、当時そんなふうに気さくなスターは香港にいなかったと言われました。 久しぶりに参加した香港の現場は以前と変わらぬ雰囲気で、僕は「やっぱりこんないいところはないなあ!」と思いながら撮影していました。ゴールデンハーベストのスタジオで夜中の1時、2時まで撮影するのですが、それがもう楽しくてねえ(笑)。ただ、80年代のアクションは70年代より緻密になっていたので、NGの回数はグンと増えました。 セットの中は冷房がなく、暑い日は40℃くらいになります。それでも楽しかったんですよね。その頃になると、最初はダメだったご飯の上に鶏の足をのせた料理も、美味しく食べられるようになっていました。(笑)
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