燃えてしまった輪島朝市に「いつか必ず帰る日を信じて…」”出張スタイル”で踏ん張る母娘
“輪島朝市”の復興は…
地震から半年。今では全国各地から出店の依頼があり、組合員の有志が兵庫県や愛知県など、県外に出向き市を開いている。避難している金沢から県外へ出かけるには長距離移動の負担もあり、売り上げも微々たるものだが、なんとか生業を継続することはできている。とはいえ、大きな課題は残っている。 “出張”ではなく、輪島の、あの通りでテントを並べる「輪島朝市」としての復興。出張朝市に参加できているのは全組合員のわずか5分の1程度。もともと高齢化が課題だった輪島朝市では、移動手段を持たない人も多く、商品の在庫のほとんどが焼失した人も多くいる。輪島に残っている高齢の組合員は、今も地元の仮設住宅で小規模な朝市を開いたり、中には、まだ避難所生活を続ける人もいるのが現状だ。
輪島で魚を仕入れていた南谷さんは、遠方の仕入れ先に頼っている。輪島の漁港は海底が隆起し、すべての船が半年にわたって港内に留められたまま…。漁港の再開の目途は立っていない。「輪島で再開できる日が来るまでくいつなぐ」コロナ禍でかさんだ借金、地震でめちゃくちゃになった加工場…それでも地元に帰る日を信じて、出張朝市で踏ん張っている。
ようやく始まった「朝市」の公費解体
まもなく半年を迎える6月のはじめ、輪島の朝市通りに重機の音が響いた。手付かずのままだった焼け野原の公費解体が始まったのだ。持ち主全員の許可が必要で申請の受理に時間がかかっている公費解体だが、輪島朝市は、建物としての機能を失ったとされる「滅失登記」の手続きが行われたため、ようやく動き出した。これで、そう遠くないうちに更地になる日がくる。そしていつか、その場所で再びオレンジ色のテントを並べることができるのだろうか…。
南谷さんは、改めて、地震で失ったものはあまりにも大きすぎると話した。「これまでの人生は何だったんだろう」と思う瞬間もあったという。それでも、「5年後になるか10年後になるかわからないが、みんなで輪島に帰る日に向けて続けていくしかない」いつかくるその日を信じて。先の見えない暗闇の中、きょうもピンク色のポロシャツを着て全国を駆け回っている。