燃えてしまった輪島朝市に「いつか必ず帰る日を信じて…」”出張スタイル”で踏ん張る母娘
地震から6日で動き出した最年少組合員
水も食料も手に入らず、先の見えない被災地・輪島。不安だけが募り、その日を生きるだけで精一杯だった。発災6日目、変わり果てた輪島の姿がSNSにアップされた。呆然とする南谷さんの姿を見て、22歳の長女・美有さんが、暮らしていた町の今の姿を撮影して回り投稿したものだった。 2年前から母とともに朝市の店に立ってきた美有さん。「落ち込んだままではいけない」と、自身が将来継ぐことを決めた母の会社と、大好きな地元を再起させるため立ち上がった。奮起する一方で、こんな本音を漏らした。「これまで自分もそうだったけど、被災していない人にとって、地震は『他人事』という部分があったので…」忘れ去られてしまうのが怖い、という思いも大きいという。 石川県の馳知事は「まだボランティアには来ないでください」と呼び掛けていた。公的な復旧支援を優先するためだったが、能登の人たちは不安と孤独に包まれていた。「多くの人に輪島の今を知ってもらって、助けてもらおう」美有さんは間もなくクラウドファンディングを立ち上げた。「今はお返しする品はないけれど…いつかお返しをするので…お願いします」悲痛な叫びを全世界に発信した。 南谷さん親子はとにかく動かねばと、仕事を再開させるため知り合いを頼りに魚の加工ができる工場を探して回った。住まいを失い、高齢の親戚を連れて各地を転々とした。新型コロナウイルスにも、インフルエンザにも連続してかかった母の良枝さん。美有さんは「いつも元気いっぱいな母だったんですけどね…」と、不安な表情を見せた。先の見えない日々に、親子は心も体も限界だった。
「お客さんに会えることが、一番うれしいんや」
まだ寒さを感じる3月はじめ。2か月ぶりに包丁を握る日がやってきた。輪島から100キロ離れた金沢市の港に、輪島朝市のメンバーが集まっていた。金沢の漁業協同組合が場所を提供し、朝市のメンバーが魚を加工するための仮の作業工場が作られたのだ。包丁を握るのは大晦日以来。朝市のおばちゃんたちに笑顔が戻っていた。 「やっぱり手が覚えとるね」「魚さわるのが楽しいわ」準備していたのは、この場所で開かれる「出張スタイル」の輪島朝市で販売するための商品。輪島の朝市通りに並んでいたころと同じようにオレンジ色の天幕を並べ、市を開き、対面でお客さんと接する。南谷さん親子も露店に並べる品を作り始めた。魚をさばき始めてまだ間もない娘の美有さん。少しだけぎこちなく映った背中に、母・良枝さんがつぶやいた。 「美有が店を継ぐって決めたからね。これまで以上に頑張って、いい形で受け渡したいんや…」出張輪島朝市が初めて開かれるその日、金沢は朝から土砂降りの雨。それにもかかわらず、県内外から1万3000人が訪れた。金沢の漁港に並んだオレンジ色のテント。あちらこちらで響く「こうてくだぁ」の声。 人の波が途切れなかった。南谷さんの店にもなじみのお客さんが次々と訪れた。美有さんの奮闘ぶりを知り県外から訪れた人も大勢いた。接客する美有さんの顔には、これまでの張りつめた表情から、幼い笑顔が浮かんでいた。 お客さんから南谷さん親子にかけられた「生きていてくれて本当に良かった」という言葉の数々。笑顔と涙があふれた1日になった。