非核の願い宿る「折り鶴バッジ」、製作の半世紀に幕 福島原発事故で工場閉鎖…広島サミット、核廃絶の切望に逆行も
「原爆許すまじ」―。広島、長崎に対する原爆攻撃の直後に命を落とした人、超高熱と爆風、放射線被害の非人道的惨禍を生き延びた人、病に倒れ、家族を失い、自ら命を絶った人たち。数知れぬ被爆者たちの魂を懸けた反核平和の願いを宿す「折り鶴バッジ」の製作を担った会社が、静かに幕を下ろしていた。半世紀に及ぶ歴史に終止符が打たれたきっかけは、東京電力福島第1原発事故で福島県浪江町の工場が閉鎖に追い込まれたこと。5月、被爆地で初めて開かれた先進7カ国首脳会議(G7広島サミット)は、ウクライナ危機を背景に、核兵器による脅し合いで均衡を図る「核抑止」を正当化、岸田政権は防衛予算を拡大し原発回帰も進める。核廃絶の願いに逆風が強まるが、継承の意志も消えていない。(共同通信=土屋豪志) ▽永久の色 「以前はきれいな七宝でした」。日本原水爆被害者団体協議会(被団協)の女性が懐かしむように話した。今、販売用に残る赤や青などの定番のバッジは楕円に白い折り鶴をあしらった昔ながらのデザインだが、色付けはラッカーを使った簡易な仕上げに変わっている。
かつての「七宝」の奥行きある色について、バッジを製作してきた「フタバメタル」(千葉県習志野市)の元社員が話す。「金属の折り鶴バッジに色の素のガラス粉を乗せ、千数百度で焼いて表面を研ぎ出す。もちろん手作業で」 2011年3月、東電福島第1原発事故直後に避難するまで、浪江町の工場で職人たちが丹精込めて作業に当たっていた。原発10キロ圏内。10人程度の小さな職場だった。 「ラッカーと比べるとずっと手間がかかるが、七宝はあせない永久の色」と元職人の男性。バッジを打ち出すプレスやメッキの工程を受け持っていた習志野の工場、浪江の七宝の工場を自社で備えることで、コストを抑えられていたのが強みだったという。だが、フタバ社は2021年ごろ、先代社長の他界や職員の高齢化も相まって営業を停止した。元社員は「浪江の工場が使えなくなったのも大きい。まさか閉めるとは思っていなかった。寂しいよ」と惜しむ。 ▽被爆者支える