非核の願い宿る「折り鶴バッジ」、製作の半世紀に幕 福島原発事故で工場閉鎖…広島サミット、核廃絶の切望に逆行も
折り鶴が非核と平和のシンボルになったのは、2歳の時に広島で被爆し、回復を願って鶴を折り続けた佐々木禎子さんが10年後に白血病で死去した悲話が内外に紹介されたことがきっかけ。この折り鶴をモチーフにしたバッジは、被団協に加盟する東京の被爆者団体「東友会」が1959年に作った「原爆被害者救援バッヂ」までさかのぼれるようだ。当時一つ20円。被爆者が互いを支え合う東友会の財政は厳しく、「売り上げを小銭袋から出して、事務員の給与に充てようとしたこともあった」と村田未知子事務局主任が話す。 1954年3月1日、米国が太平洋のビキニ環礁で行った水爆実験で、静岡県焼津市のマグロ漁船「第五福竜丸」などが被ばく。日本全国で原水爆禁止運動が広がる中で、55年に原水爆禁止日本協議会(日本原水協)が、56年に被爆者団体の被団協が結成された。 東友会は58年に発足。原水協、被団協と同じ東京都内の建物に同居していた頃、広島で被爆した小島利一・財政部長が金属板を自ら削って「救援バッヂ」を試作した。このバッジや折り鶴のネクタイピンを多くの人が購入し、脆弱な初期の財政の大きな支えになった。
1980年代に入っても折り鶴バッジは人気を博した。「1万円札をどんどん渡されて、箱にもポケットにも収まりきらないほど」。広島で開かれた原水爆禁止世界大会では、バッジなどのグッズが飛ぶように売れたと、村田さんは振り返る。日本各地からカンパを預かった参加者が広島を訪れた。フタバ社は大会に合わせて原水協が作るバッジも長く請け負った。 東友会の折り鶴バッジの製作にフタバ社が関わったのは1960年代後半から。公害解消などを求め、左派の美濃部亮吉・東京都知事の「革新都政」を後押しした市民らの「青空バッジ」を大量生産していた頃だ。当時の本社は東京・上野。「120万個は作った」と元社員は往時を懐かしむ。市民が都政に大きな影響を与えた時代、通勤電車の中で青空バッジを着けている人も多かったという。 ▽届いた願い 被爆によるけがや病、原爆症の不安、家族の喪失、経済的困窮、差別など、抱えている心身の傷の数が多い人ほど、生への絶望が深まる。苦悩が深ければ深いほど、核廃絶や原爆犠牲者への慰霊の思いが強く、それらを支えに必死に生をつないだ―。