非核の願い宿る「折り鶴バッジ」、製作の半世紀に幕 福島原発事故で工場閉鎖…広島サミット、核廃絶の切望に逆行も
▽「まだ作れる」継承の意志 浪江町はフタバ社の先々代の社長やバッジ作りに携わった親族ら関係者の古里で、社員らゆかりの地。「田んぼしかないあの辺の田舎から出てきて、うちで働いた若者も多かったんだ」と元社員が言う。元職人の男性は「バッジを詰めた重たい荷物を浪江から列車で上野駅までよく運んだよ」と振り返る。 大地震と原発事故の後、避難の車が大渋滞を起こす中、後にした浪江の七宝工場は既に更地となった。被団協が注文した折り鶴バッジが千個近く残っていたはずだという。避難指示は2017年に解除された。だが、関東に暮らす別の関係者は「いまさらもう帰れない」、そう話した。 長崎の女性被爆者の一人は、東電福島第1原発事故に心を痛めながら、事故の6年後に他界した。「日本が被爆者に真剣に向き合ってくれていたら。広島、長崎の被爆者は棄民だと思います。捨てられっぱなし。でももう、それに対してとやかく言う気はなくて。福島だけはきちっとしてほしいと思います」
核の悲劇を二度と起こしてはならないと訴え続けてきた被爆者の平均年齢は84歳を超え、近年は毎年9千人前後が亡くなっている。 新型コロナウイルス禍による集会の減少で、折り鶴バッジが作られる機会も減った。被団協のバッジを1トンの力でプレスしたというフタバ社の金型は、長年使われることもなく、さびも浮き始めていた。バッジや七宝を扱う業者は減少、コストは上昇し、かつてと大きく環境が変わっているという。だが、原水協元幹部は「戦争阻止、核廃絶、被爆者援護への連帯。三つの思いがこもったバッジを今もみんな着けて歩いている」と話す。「まだ作れる」。バッジ製作に携わってきた関係者は、折り鶴バッジの継承に力を込めた。