「偉人」の過去の不正義にどう向き合ったか〈下〉 被害者の三井絹子さんはどう考えるか 「人権を語ってきた人が私を傷つけた」
中絶をすすめられても
俊明と結婚し、75年に施設を出て地域での暮らしを始めました。さまざまな差別や排除がありましたが、最もつらかったのは妊娠、出産したときです。 医者から「妊娠です」と言われたときは、うれしくて泣きました。しかしその直後、医師は中絶をすすめてきたのです。「これ以上望むことは、夫に甘え、母親に甘え、社会に甘えることになる。それは許されない」「今なら胎児は3カ月に満たないから(中絶できる)」「どんな子が生まれるかもわからない」と言われました。ここで優生保護法の言葉を聞くとは思いませんでした。 私の体を心配する母や姉たちからも中絶をすすめられ、一時は絶縁状態になりました。誰にも相談できず、つわりもきつかったけど、妊娠5カ月を過ぎたころ、母が突然、腹帯や赤飯を持ってきてくれました。認めてくれた証しでした。姉たちも一緒に祝ってくれました。お腹がピクンと動いて胎動を感じたときのうれしさは言葉にできません。 子どもが生まれたら、それまでのヘルパーとボランティアの体制では不十分なので、「手伝ってください」というビラを駅頭で撒きました。でも、かかってきたのは「自分で何もできないのに産むのはおかしい」「かたわ(ママ)の子が生まれる」という電話でした。 体重約30キロの私にとって、妊娠・出産は命を懸けた挑戦でした。帝王切開で無事、女の子が生まれました。ところが退院間際に夫が過労から病気になり、1カ月半も入院することになってしまったのです。つきっきりで私の世話をしてくれていた夫がいなければ、どうしたらいいのか。病院のケースワーカーは、子どもは乳児施設へ、私は緊急一時保護施設へ入るようすすめました。でも、私はどうしても子どもを手放したくなかった。一度手放したら、もう戻ってこないと思った。自分が施設に行くのも嫌でした。知り合いに頼んだり新聞記事で募集したりして介護してくれる人を探し、24時間のローテーション1カ月間分をつくって自宅へ帰りました。近所の主婦や大学生など、1カ月半の間にかかわってくれた人は延べ100人を超えました。 娘の世話は、すべて私が介護の人に指示してやりました。歩き始めた娘が転んでも、介護者には抱き上げないでと言って、泣きながらでも自分で立って付いてくるようにしました。私は子どもに対して「何もできなくて、ごめんね」と言ったことはありません。しょうがいしゃになったのは、私のせいじゃない。しょうがいしゃの親を恥ずかしがったり、じゃまにしたりしてほしくない。差別しない子に、差別を許さない子に。それを娘にとことん浸透させてきました。