ドイツ語の変種「キーツドイツ語」から見えてくる、日本の現在地
渡辺 学(明治大学 文学部 教授) ドイツの有力紙「フランクフルト・アルゲマイネ」に先日、ドイツ人のドイツ語力が低下し、逆に英語力が増しているという調査記事が掲載されていました。これを鵜呑みにするのは危険ですが、背景には英語のグローバル化だけでなく、ドイツ語が文法的に簡略化・単純化している現実も含まれているでしょう。近年、変化しつつあるドイツ語のひとつに「キーツドイツ語」と呼ばれるものがあり、日本を知るうえでも興味深い比較対象となっています。
◇外来語の流入や文法の簡略化などにより、ドイツ語の“変種”が生まれている 世界には、「アメリカ英語」や「イギリス英語」だけでなく、「シンガポール英語」や「オーストラリア英語」など、さまざまな英語があります。ドイツ語にも、そこまで広域ではないものの、「オーストリア・ドイツ語」、「スイス・ドイツ語」といった地域的な多様性は昔からありました。しかしそれとは別の変化が近年、見られています。代表的な傾向が、キーツドイツ語です。 キーツとは「特定街区」を表す言葉で、ベルリンやマンハイムの一部など、トルコ人をはじめとする多くの移民が住んでいるエリアを指しています。トルコ系移民は1960年代から存在しますが、彼らが第3世代になった頃、つまりはドイツで生まれ、ドイツ語ネイティブとしてドイツ語を話す人が大多数を占めるようになった1990~2000年あたりから、トルコ語などの要素も入ったドイツ語が言語学者をはじめとする人々の注目を集めるようになり、2010年頃からキーツドイツ語という表現が使われるようになりました。 ドイツはカナダに次ぐ規模の移民大国です。定住している外国人の人口は、日本が3%弱なのに対し、12.5%にものぼります。親世代や祖父母世代が非ドイツ人であるなど、移民の背景を持つ人たちが占める割合は、なんと人口全体の4分の1。結果、さまざまな言葉が混じり合い、多様化しやすい環境にあると言えるでしょう。 キーツドイツ語は、移民の増加を背景としながらも、ドイツ語の体系全体を揺るがすほどではなく、外来語が取り入れられたり、文法が簡略化したり、語彙が単純化したりといった形で進行しています。つまり、ドイツ語の“一変種”が生まれつつあるということです。これは「話し方のスタイル」に過ぎないとの説もあります。 たとえばトルコ語で「ご老体」を意味する「lan」を「兄貴」的な呼びかけに使ったり、アラビア語で「神に誓って」を意味する「vallah」を「マジで」的な強調の意味合いに使ったりと、外国語を感嘆詞のようにドイツ語の中に混入させている事例もあります。 また、話しことばでもよくある語末音の消失や前置詞の脱落などが起こります。「I ask my sister.」にあたるドイツ語「Ich frage meine Schwester.」が「Ich frag mein Schwester. 」となるなど、従来の複雑なドイツ語の文法形式である格変化語尾が一部抜け落ちるわけです。「I change the train at Stadtmitte.」(シュタットミッテで乗り換える)であれば、「Ich steige in Stadtmitte um.」が「Ich steig(e) Stadtmitte um.」となり、「話しことば」に特徴的な動詞変化語尾の-e が落ちるだけでなく、前置詞も脱落します。 簡略化や単純化の背景には、遊戯的な要因に加えて、言葉の経済性もあると考えられます。すなわち簡単で短い方が、日常で使うのに楽だからです。これらは英語や日本語にも見られ、古英語では、名詞に性があり、格変化なども複雑でしたが、現代英語にはそれがありません。日本語も大昔には上・下二段活用などがありましたが、今残っているのはせいぜいカ変(カ行変格活用)、サ変(サ行変格活用)程度で、ほかは規則変化です。時代とともに言語が変化することは、しごく当然の現象ともいえるでしょう。