「団塊的・昭和的・高度成長期的」思考からの転換期 「人生の分散型」社会に向かうビジョンと方向性
ちなみに私はアメリカに3年間暮らした経験があるが(1980年代の終わりの2年間および2001~2002年)、尋常でない格差や貧困、医療システムなど社会制度の不備、暴力の横行等々、アメリカが“望ましい社会”の姿を体現しているとは到底言えず、およそ「モデル」としうるような国ではないことを痛感し、また拙著などでも論じてきた。 思えば戦後の日本全体が「アメリカ信仰」の下に生きてきたとも言え、団塊世代はその象徴的なポジションという位置づけになるわけだが、こうした発想の枠組みから脱却する時期を迎えているのである。
■伝統文化の切断と回復 一方、「アメリカ信仰」と表裏のものとして、また敗戦による自信喪失という経験もあって、“日本的”とか“伝統文化”といった類のものは、戦後の日本においては概して「劣ったもの」「前近代的なもの」「遅れたもの」「非合理的なもの」といったイメージとともにとらえられるようになり、人々の主たる関心からはずれていった。結果として、団塊世代の前後において、日本の文化の継承にある種の大きな「切断」が生じることになったのである。
この点に関して私自身の身近の小さなエピソードにふれておきたい。私はここ20年ほど、「鎮守の森コミュニティ・プロジェクト」というプロジェクトをささやかながら進めており、それは全国に約8万か所存在する――コンビニの数は全国で約6万なのでそれよりも多い――神社ないし鎮守の森を、自然エネルギーの分散的な整備や地域活性化、あるいは心身の癒やしといった現代的な課題と結びつけながら新たな形で再発見していこうという趣旨のプロジェクトである(「鎮守の森コミュニティ研究所」ホームページ参照」。
こうしたプロジェクトを進めている関係で、各地の神社の関係者の方々と交流する機会も多いのだが、首都圏のある地域の神社の、比較的若い神職の方と話をしていた際、その方が次のようなことを言っていたのが印象に残った。 それは、その神社の来訪者の中で、団塊世代前後の人々の態度がもっとも横柄だったり、失礼だったりすることが多く、逆にむしろ若い世代の来訪者のほうが、神社あるいは伝統文化、自然信仰のようなことに対して一定のリスペクトや関心をもっていると感じられる、という趣旨の話だった。