村田諒太の系譜「豪気」を胸に濱本紗也が2階級上げて女子ボクシング東京五輪予選ライト級代表切符をゲット
変わらぬ部訓は「豪気」である。 「豪気という言葉に奮い立たされます。絶対に引き下がらない。そういう気持ちです」 そういえば、武元先生は、村田にいつも、こんな教えを説いていた。 「苦しくなったら前へ出ろ」 濱本は空手が媒介になってボクシングと出会った。父の幸造さんは、世界王者を生み出した六島ジムへ通っていたこともあり、格闘一家の影響を受け4歳から空手を始めた。小学校のころ、「蹴りは遠い距離も作れてパンチより早いから」と、キックばかりでほとんどパンチを出さなかったことから「パンチを出すようにボクシングを習いなさい」と、親に寝屋川石田ジムへ通わされた。夢中になることもなく、門真2中では陸上に没頭していたが、ジムの西田トレーナーに「このままボクシングをやめるのはもったいない」と薦められ、中3の6月に、その西田トレーナーの母校でもある京都廣学館高ボクシング部に1日体験入部をした。 その1日に衝撃を受けた。 「インターバルで声をかけあう先輩たちがめちゃくちゃかっこよくて、ナンキン(南京都高校の略)の練習が輝いて見えたんです」 高校時代は過酷な走り込みで何度も足が痙攣した。2年の12月の全日本で入江に敗れたが、3年の選抜ではリベンジを果たして優勝。だが、その後は、「銅メダルばかり」で、やがて腰を痛め、ヘルニアの手術を行って1年9か月もの間、リングから遠ざかった。 それでも「ボクシングを辞めようと思ったことは一度もなかった」という。毎日、授業の1時限目から6時限目まで「早く部活がしたい」と思いながら過ごした。 近大に進学予定だったが、“セクハラ事件“が起きて日大に進路を変更。現在は、文理学部所属の大学2年生である。 東京五輪予選への出場権を手にしたが、まだドアのノブに手をかけたくらいの状況である。 「今日の私の動きなら入江さんには勝てなかったと思う。五輪にちかづけたことうれしいが、このボクシングだったら、五輪に出られない。でも銅や銀メダルはいらない。金メダル以外はいらないんです。おそらく今の獲得確率は1パーセントでしょう。でもリング上で間違ったことをしなければいけます。試合で自分を乱さない、そういう強さが必要です。私のツー(右ストレート)が当たれば勝てます。その強さを身につけるには、毎日、練習で目的をもってやること。体作りも足りません」 濱本もここがゴールではなくスタート地点であることがわかっている。 「まずは2キロの鉄アレイを3キロにします」 20歳の女子大生は、そう言って ニコリとした。 勝つために何が必要かわかっている。こういうボクサーは本物。まだまだ粗削りなボクシングが、来年2月のアジア・オセアニア予選では、どう変わっているのか。その進化の先に東京五輪の表彰台へと続くドアが待っているのかもしれない。