1年限定で「流行通信」を手掛けた横尾忠則の審美眼
1年間限定13冊の「流行通信」
--1980年から1981年にかけて、ちょうど絵画に移行する端境期に雑誌のアートディレクターを引き受けられたのはなぜでしょうか?
横尾:理由は頼まれたから。グラフィックデザイナーは依頼がないと仕事が成立しないですよね。僕は常に受け身でしたから“頼まれたから”というだけなんです。森英恵さんにお昼に誘われた時に、「『流行通信』が続くまでアートディレクターをしてほしい」と言われて、半永久的ではプレッシャーになるので、1年という期間を限定して引き受けたわけです。最後の号の発売直前にもう1ヵ月だけ続けてほしいと言われて、後ろ向きの人物が表紙の号を作ったんです。
--オファーがあった時に、森英恵さんからこういうふうに作ってほしいというような要望はあったのでしょうか?
横尾:全くなかったですね。「横尾さんの思い通りのものを作ってください」と言われました。だから、遊びの場を与えられた感じですよね。でも、やり方がわからないから、毎号作りながら輪郭が見えてきた感覚です。自分のイメージもあるから、カメラマンは決めないといけない。大勢が参加して、その都度決めていくのも面倒だし、表紙から小さいサイズの広告写真まで、1冊を1人のカメラマンが撮影したら簡単なので、第1回目を十文字(美信)くんにお願いしたんです。個人写真集を作るつもりでやってほしいと注文しました。
--どのようにカメラマンを決めていったのでしょうか?
横尾:他の雑誌でやってることを真似しても、「流行通信」としての存在価値がないですから、なるべくファッションを撮ったことがないカメラマンや、彼等が普段やっていないようなことをお願いしました。その時々の人選がうまくいけば成功すると思ってましたからね。カメラマンが初めてのものを撮影する時はまず、戸惑うんです。戸惑って悩みながら撮ることによって、ある意味で初心にかえることができるし、そこから生まれるものは大抵新鮮なんですよ。職人的にファッション写真を撮っているカメラマンには、あまり興味がなかったです。それよりも見たことがない写真を撮ってほしかった。