踊らないインド映画『ガンジスに還る』に見る 幸福な最期の迎え方とは?
こんな最期を迎えることができるのなら、どれほど幸せなことだろう。『ガンジスに還る』は死と向き合う物語にもかかわらず観終えたあとには心にやさしい風が吹く。そんな映画だ。 ある日、不思議な夢に導かれて、自らの死期を悟った父・ダヤ(ラリット・ベヘル)は、ガンジス河畔のヒンドゥー教の聖地「バラナシ」に行きたいと言い出す。死の影など感じさせないダヤの申し出に家族は反対するが、ダヤは意志を曲げようとはしない。仕方なく息子・ラジーヴ(アディル・フセイン)が仕事を休んで、ダヤに付き添いバラナシへ出掛けることになった。バラナシに到着すると、安らかな死を求める人々が暮らす「解脱の家」の門を叩く。 「解脱しようとしまいと、滞在は最大15日まで」。15日を過ぎてしまったら、あの世へ行くも帰宅するも、滞在者の判断に委ねられる。薬を拒み、死を迎える準備をし始めるダヤはすぐにバラナシの生活に馴染んでいく。滞在者は語り合ったり、河岸でヨガをしたり、ガンジス河で身を清めたりと過ごし方は人それぞれだ。一方、仕事人間のラジーヴは携帯電話ばかりを気にしている。 「昔はよく物語を書いておったな」「父さんのせいです」「挫折を人のせいにするのはたやすい」 これまでにいつの間にかできていたダヤとラジーヴの間の大きな溝は一時的にさらに大きくえぐられるも、だんだんと修復されていく。ダヤを待つのは幸福な最期なのか? そして家族はその死をどう受け止め、乗り越えていくのだろうか? 世代ごとの価値観の相違を描く同作は、小津安二郎の『東京物語』を彷彿させる。監督・脚本を務めるシュバシシュ・ブティアニ氏はこの作品から数多くの影響を受けたという。弱冠27歳の新鋭映画監督の描く人間ドラマとはどのようなものなのか。
描いたのは家族そのもの 脳裏に浮かぶ小津安二郎の『東京物語』
── 映画の撮影前と撮影後には「死生観」に変化はありましたか? ブティアニ監督:少なくともこの映画を撮影した後、死生観に関する自分の視点は広がっていきました。やっぱり人が間近で死の準備をしているのを見たわけですから。いろいろな人のお話を聞いて、彼らが人生を通して何を学んだかを聞くわけですから、それはそれは脳裏に深く刻まれるわけなのです。しかし、それによって「こういうことを学びました」「僕はこう思います」「これを信じます」とは断言しにくいもので、いつも新しい考えに対してはオープンでいたいと思っています。 僕自身はいわゆる無神論者たちの家ではなかったのですが、この映画に登場する家族のような特定の宗教に属した家だったとは言えません。父はヒンドゥー教だったり、親戚にキリスト教徒やムスリムがいたり、いろいろなのでした。そういうわけで宗教というのは僕自身もなんていうか上手く処理できていない部分もあります。以前撮った短編映画でも描いているんですけど、これについては真剣に研究してもいいと思っているくらいなんですね。いろいろな書籍も読んでいますし。とはいえ、この映画を撮っているときはそれに夢中だったので、それどころではありませんでした。しかし、身近な人が死を迎えるとなると、やっぱりその人との関係をもう一度、見直すきっかけにはなると思うんですけどね。